やく束は守もります
△8手 暮夏
梨田の〈指導〉は、隔週で平日に行われている、と本人は言う。
『次の木曜は仕事?俺、そっちで指導があるんだけど』
「遅番だから8時まで」
『じゃあ水曜は?』
「早番だから5時」
『だったら水曜日にしよう』
梨田はいつも前日に移動してきて一泊し、池西将棋道場で〈指導〉をしてから、その日の最終で帰っているそうだ。
もちろん対局を含む別の仕事が入って、ずれ込むこともあるが、たいていは二週に一度来て、香月の時間が取れる日に一緒に食事をする。
「記録取ってて、ストップウォッチを押し忘れるなんてミスは結構あるよ」
梨田はストローで氷をからんとかき回す。
あまりお酒が強くないという梨田はいつも飲まないので、食後はコーヒーショップに寄るのが定番となっていた。
「そんな時はどうするの?」
「慌てて押して、秒読んだこともある。表示とは違うのに、タイミングだけ合わせて『50秒ー、1、2、3、』って」
架空のストップウォッチを見ながら読む秒読みは、確かに真に迫っている。
「バレない?」
「『あれ?』って顔されることはあるけど、そこで動揺したらダメだよね。堂々としていれば大丈夫。俺はバレたことない」
自信に満ちた梨田の表情を見て、香月は笑う。
「記録係もいろんなものと戦ってるんだよ。眠気が最大の敵で、次がトイレ。あと空腹と、身体の痛みと、気難しい対局者」
長い対局だと朝10時に開始してから、翌朝までかかったという話も聞く。
感想戦が終わって対局者は帰っても、記録係はその後棋譜をまとめる作業もあるらしい。
その間、対局者は持ち時間の範囲内で自由に離席できるが、記録係は定められた食事休憩以外は基本的に正座で座りっぱなし。
一局単位で報酬は出るものの、時給計算したくない仕事だ。
「対局者も敵なの?」
「中にはいるんだ。細かくて面倒なのが。先月当たったからボコボコに仕返ししておいた」
誰を思い描いているのか、満足げな顔が面白くて、香月はハンカチで目頭を拭った。
かつて将棋の話しかしなかった梨田は、相変わらず将棋の話ばかりする。
それでも昔のような細かい話はしなくなった。
もう香月には、梨田と同じレベルで会話することはできない。