やく束は守もります
『もしもし、香月?今、大丈夫?』
梨田の電話は、いつもだいたい夜の9時頃かかってくる。
夕食が終わって、お風呂に入る前の時間に、10分だけ。
何気なさを装って、頻度や時間が負担にならない加減を考えているに違いない。
力をこめないように、それでいてしっかり熱が伝わる強さで、撫でられているような接し方。
目を閉じて何も考えず、それに身を委ねてしまいたくなるのを、香月は頭を振って踏み留まっている。
そのつもりだった。
電話が来てから10分。
会話が止まる。
電波の向こうで、梨田が口を「じゃあ」の形にしたような気がして、
「ちょっと待って!」
香月は反射的に遮っていた。
今日こそ、と頭の中で何度も練習した言葉を言おうと口を開く。
「・・・あと5分だけ、何か話して。何でもいいから。棋譜読み上げるだけでもいい」
けれど、思わず口をついたのは、あまりに素直な欲求だった。
吹き出すような空気が電話にぶつかって、香月の耳を赤く染める。
梨田の声は笑いを含んだまま。
『さすがに、棋譜読み上げは嫌だよ』
それからはごく普通に、最近食べた変わり種うどんの話とか、逆プロポーズされた棋士仲間の話とか、5分どころか、10分を越え、15分を越えても梨田は話し続けた。
自分で引き留めたくせに香月が心配になる頃、梨田はようやく言葉を止めた。
『香月は明日も仕事でしょ?』
「うん」
『・・・じゃあ、切る、よ?』
「うん」
『おやすみ』
「おやすみなさい」
そう言っても少し間があって、けれど香月が不安になる前にそっと電話は切れた。
梨田はいつも自分から掛けてきて、自分から切る。
どちらも香月ができないことを、知っているかのように。
じわじわと染み込むように、梨田に甘えている。
それが香月は怖かった。
あの対局が最後だったら、梨田はいつまでも香月のきれいな思い出だったのに、生身の梨田はそこにとどまろうとしてくれない。