やく束は守もります
小学生の頃も、降りしきる雪の中待つ梨田に「もうやめよう」とはとうとう言えなかった。
気遣いを悟らせないように更に気遣いを重ねる人だから、知らないふりをして甘えていいのか、どこかで止めなければいけないのか、いつも迷う。
梨田の弟弟子が王位戦に挑戦するも敗れたと、悔しそうに語る声を聞きながら、香月は窓を開ける。
夜は気温が下がるので、外の空気に触れるだけで心地よい。
未だ暑さの中にいる梨田には想像できないようだけど、世界は確実に秋に向かっていた。
『来週の水曜日は空いてる?』
涼風に任せていた身を起こして、壁のカレンダーを見る。
「水曜日は・・・」
自分の勤務日程を思い浮かべて、それより先に頭に浮かんだことがあった。
前日の火曜日は、C級2組順位戦。
唇を噛んでいた口を開き、覚悟を言葉に乗せる。
「会えない」
『仕事?』
「そうじゃなくて」
深く息を吸い込んで、いったん止め、ゆっくりとはっきりと伝えた。
「もう、会えない」
梨田が黙っているのを確認して、いつか言わなければ、とずっと用意していたセリフを続ける。
「池西先生に確認した。ごめん。もっと早く断ればよかった。本当にごめんね」
〈指導〉なんてない。
プロの指導対局やイベントは、人が集まりやすい土日に行われることが多い。
プロを呼ぶにはそれなりにお金がかかるし、収入の見込めない平日にそんな催しを設定するはずないのだ。
こんな田舎の小さな将棋道場なら尚更。
しかも、毎月、何度もなんてあり得ない。
梨田はいつも何の用事もないのに、こちらへ来ている。
もちろん交通費だって自費で。
香月はもうずっと前からわかっていて、だけど黙っていた。
黙っていれば、梨田に会えるから。
何もしなくていい。
香月はただ、黙っていればよかったから。
だけど、それは梨田にとてつもない負担を強いることなのだ。
時間的にも、体力的にも、金銭的にも。
こんな見え透いた嘘が長続きしないことなど、梨田とてわかっていたはず。
香月なら指摘できないと思ったのか、それとも出方を伺っていたのか。
ともかく、手を握り返した直後から感じていた後悔が、はっきりと形になった。
香月と梨田の生きる道は重なっていない。
大人になって縮まったように思える距離は、結局ふたりの上に重くのしかかっていた。