やく束は守もります
順位戦はお互いの持ち時間が6時間。
午前10時に対局が始まっても、感想戦が終わるまでには深夜になっていることもザラにある。
体力と精神をすり減らして深夜まで戦った相手を、翌日遠方まで呼びつける真似はできない。
そんな無理を、これ以上続けさせるわけにはいかなかった。
一気に言って通話を切ろうとすると、『香月』と背筋の凍るような冷たい声が届いた。
『いいよ、終わりで。もう行かないよ』
嘘を認める言葉は、気まずさでもなく、恥ずかしさでもなく、ひたすら怒りがこもったものだった。
『相変わらず、何かを諦めるときは潔いよね』
鋭い言葉できっちり『褒めてないよ』と付け加えて。
『そうなってしまう理由は、だいたいわかってる。昔のことなら仕方なかったと思う。あの頃は、いろんなことができなかった。香月も、俺も。努力や気持ちだけじゃどうにもならないことがあるって、あのとき知ったから』
何度人生をやり直したとしても、あのとき香月が奨励会に行く道は選べない。
それは十分納得していて、未練もないことだった。
『だけど今は違う。俺も香月ももう小学生じゃない。無邪気に夢を見られなくなった分、自分の責任だけでできるようになったことも多い。それでも香月は何もしないんだ?』
梨田の声はいつも、香月の感覚のすべてを奪っていく。
目は開いているのに、耳だって聞こえているはずなのに、梨田の声と胸の痛み以外は何も感じられなかった。
『俺もいろいろ考えてはいたよ。香月が不安に思ってることも、なんとなくわかるつもり。でも俺に何も聞かないで、何も求めないでやめるの?変わってないと思ってたけど、本当に全然変わってないね』
『元気でね』と通話は切れた。
いつものように香月の様子を伺うことなく、ブツッと。
ぬるりと耳から電話が落ちる。
涼しかったはずの身体は、冷えた汗でじっとりと濡れていた。
窓から入ってくる風も、さっきと違ってぬるくて濁ったものに思える。
あの夜も、梨田は怒っていた。
香月の投了が早すぎたことと、奨励会を諦めたことの両方を。
だけど手紙にあった『はやく元気になってください』には、ぬくもりがあったのに、今の『元気でね』の声はあの夜より寒かった。
悪手は、どういうわけか放った瞬間に気づく。