やく束は守もります


対局者4人と記録係の中で、梨田は一番最初に対局室に戻ってきた。
着ていたジャケットを脱いで、肘下まで腕を捲る。
腕組みして、少しだけ首を傾け、そのまま盤面を見る仕草は、幼い頃と変わらない。
『男爵』が、プロとして対局に臨んでいた。

浅井四段が帰ってきて、また梨田の姿は隠れてしまった。
しかし、浅井四段が盤面から少し離れたり、離席したりすると、香月はまばたきもせずにその姿を見つめた。
ワイシャツから伸びた手が軽く駒を摘まみ、手首をクイッと曲げて中空で駒を持ち変える。
そしてそのまますとんと落とす。
軽やかに踊るような仕草だが、棋譜速報で確認した手は重かった。

攻めるか守るかという単純なものではなく、惑わせるように局面を複雑化する。
十数手先にある相手の狙いを防ぐために、数手先に効力を発する手をあらかじめ指す。
派手ではないけれど、お互いの手を潰し合う神経戦だった。


夕食休憩後はどの対局においても緊迫した局面になる。
対局開始から8時間以上。
記録係を含め、画面に映る6名の男性はみな疲れていて、喫煙室かのように部屋の空気も澱んで見えた。
その中で、棋士たちはもがくように頭を回転させ、勝ち筋を探している。
多くの棋士が持つ扇子を梨田は使っていないらしく、口元に手を当てたり、メガネを持ち上げる仕草以外はほとんど動きがない。

速報で見る梨田の将棋は難解すぎて、例えアマチュア強豪であっても、素人に理解できるレベルの内容ではなかった。
離席した際に一瞬ふらついたこともあり、疲労の度合いが伺える。


まもなく、中継されている対局が終わった。
88手。浅井四段の完勝。
梨田の対局はまだ終盤の入り口で、形勢にも差はついていなかったが、中継は終わってしまった。

一日何もしていなかったのに、身体がぐったりと疲れ、引きずるようにお風呂に入る。
ベッドの中で眺める棋譜は、解説されても掴み切れない。
これを生み出している梨田の頭の中は、香月にとって宇宙の外側と同じくらい、想像力の限界を越えている。

そんな対局の合間を縫って会いに来てくれていた。
そんな人に「ごめんね」とは言ったのに、なぜ「ありがとう」と言ってあげられなかったのだろう。

疲労で重い身体に、さらに深い後悔がのしかかる。


終局は深夜1時過ぎ。
167手の熱戦で、梨田が投了した。




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