やく束は守もります
駅に向かう近道は、夕方という時間帯のせいなのか人通りがほとんどなかった。
「この辺、一本裏道に入ると住宅街だからね。店もないし」
都会はどこも人で溢れているのかと思っていた香月には、意外で、同時に安心できる情報だった。
ポツポツと灯る明かりの下にはたくさんの〈生活〉があって、しずかでも、どこか活気に満ちている。
「当たり前だけど、東京には普通に生活してる人もいっぱいいるんだね」
「俺なんて普通以下だよ。香月の部屋より古いから」
「そうなの?」
「見に来る?」
「じゃあ、今度」
「『今度』ね。香月の『今度』って何年後?それとも断ってる?」
「ちゃんと連絡するって!」
暮れなずむ住宅街には、ふたり分の影が伸びている。
初めて歩く道だけど、とても慣れた居場所。
ふと気配を感じて見上げると、垣根の上から咲き初めの金木犀が、ふたりを見下ろしていた。
香月の視線に気づいて、梨田も足を止めて夕空色の小さな花を見上げる。
ふいに近づいた距離に、香月が一歩下がろうとすると、それより早く梨田の右手が香月の肩を掴んだ。
少し傾けた顔がゆっくりゆっくり近づいて、唇から5cm手前で止まる。
他人の距離感を大きく踏み越えながらも、確認するような、迷うような5cm。
その様子を黙って見ていた香月は、過去への引け目も、未来への躊躇いも何もかも捨てて、震える手をただ目の前の恋に伸ばす。
そして、軽く背伸びをして最後の5cmを自分で詰めた。
甘いのは、金木犀の香りなのか、それとも━━━━━
ほんの一瞬で離れた香月に、梨田は寂しげに笑う。
「香月、明日は仕事、何時に終わる?」
「明日は、念のためお休みもらった」
途端に、梨田の顔が曇った。
「それもっと早く言ってよ」
香月の手を引いて、来た道を引き返す。
「行き先変更。俺の家、今日見せる」
ひ弱な抵抗などあっさり手折られ、香月は引かれるままに梨田についていく。
「準備とか、何もしてきてない」
「大丈夫。コンビニ寄るから」
「・・・心の準備も」
「それは今して」
何の準備もないのも、手を引かれてついて行くのも、あの夜と同じ。
ただ、自分から手を離した過去と違い、今度はその手を固く固く握り直した。