やく束は守もります
梨田のきれいな手が、唐揚げを摘みあげるのをじっと見る。
こんなに普通に使っているのに、この右手には魔法が宿るのだ。
「何見てるの?」
香月はぼんやりとしたまま、縫い止めるように梨田のひとつひとつを視線で撫でる。
「なんか、信じられなくて」
「何?」
「あの男爵と、憧れの棋士が同じ人で、そんな人とこうやって一緒にいることが」
「ああ、それは、なんとなくわかる」
昨夜初めて触った梨田の髪は、見た目同様にやわらかく、そのまま手の内から消えてなくなりそうに思えた。
目覚めてそれがまだ目の前にあっても、未だに現実感が薄い。
「男爵は、本当の本当に棋士になっちゃったんだね」
「さすがに、その呼び方は」
「ああ、ごめん」
「入ってみると、憧れは、もっと遠くなったよ」
棋力のピークは一般的に25歳くらいだと言われている。
それ以降は記憶力や瞬発力など衰えていき、特に早指し戦では若手が有利というのが常識だ。
梨田が棋士になったのは25歳。
棋士人生のスタートにおいては、華々しさとは遠い。
そうだとしても、その場所に立っているだけで、香月は憧れてやまない。
「俺、約束通り香月の夢を叶えたから、今度は香月が俺の夢を叶えてよ」
「夢って?」
「ふたつあるんだけど、ひとつは将棋」
梨田が将棋に対して見る夢を、香月などが叶えられるはずがない。
それは見えないほどの高みにあるものだと思った。
ところが、梨田の視点はもっと身近なものだった。
「もう俺は、楽しいだけの将棋は指せないから。代わりに香月が指して。アマチュアの世界だって厳しいけど、きっと俺には見えない世界が見られる」
梨田はふわっと笑う。
「だから、もう一回、将棋しよう」
初めて会ったとき言われた言葉と、よく似ていた。
「教えてくれるの?」
「俺、厳しいよ?」
「嘘つき」
本来将棋は、老若男女誰にでも楽しめる遊びなのだ。
将棋は楽しい。
それを伝えることが梨田の仕事のひとつであり、とても向いていると香月は思う。