やく束は守もります
雪が重さを増し、春の足音が聞こえ始める頃、全国的な流行より遅れてインフルエンザが流行り出した。
いつもは6人いる登校班も、その日は香月を含めて3人だけ。
特に、足の遅い一年生が休んだ影響で、ずいぶん早く学校に着いてしまい、クラスに女子は香月ひとりだった。
その教室内にパチパチと駒音が響いている。
香月の隣の席で大紀たちが将棋を指しているのだ。
話し相手もなく、手持ち無沙汰から、香月はついその盤面を覗いてしまった。
大紀は3組において、追随を許さない強さを誇っており、今も相手をしている陽介が、投了しそうな状態で苦しんでいた。
「負けたらジュース1本ね」
一人前に賭け将棋なんてしていたらしい。
他に女子がいないという油断があったのだろう。
また、友人をカモにするような態度が、気に入らなかったのかもしれない。
「陽介」
特別親しくもないクラスメイトを呼ぶと、香月は席を立って盤を横から見下ろした。
「ここに桂馬打って」
「▲3四桂」という符号がスラスラ出るほど精通していないので、指で盤面を示した。
大紀も他の男子も、突然入り込んできた香月に「は?」とか「いきなり何?」と拒絶の反応を示したけれど、行き詰まっていた陽介だけは素直に桂馬を打った。
それを見て大紀は一瞬悩んでから、王を隣に逃がす。
「この歩を取って、香車を成る」
陽介は言われた通りに歩を取りつつ香車をひっくり返す。
大紀はその成香を王で取ろうとして、角が睨んでいることに気づく。
そして王を引いてまた逃げた。
「ここに金を寄る」
陽介はもう何も考えず、香月に言われるがまま駒を動かす。
大紀の玉はその金を取れない。
しかも盤石に王の周りを固めていた駒たちが、逃げ道を塞ぐ形になっている。
きれいな五手詰だった。
大紀はしばらく悩んで悩んで、盤上の駒を手でバラバラに崩した。
「横から口出すなよ!」
「ジュース1本は?」
「おまえには関係ないだろ!横入りしただけなんだから!」
「じゃあ、最初からやる?」
大紀は何度負けても「負けました」とは言わなかった。
形勢が悪くなると盤をグチャグチャにして「もう一回!」と駒を並べる。
しかも上位者が使うべき〈王将〉は決して譲らず、香月は〈玉将〉を使わされ続けた。
何局指しただろう。
香月の友達が登校してきても挨拶もせず、クラス全員が見守ってることにも気づかず、とうとう先生が「いい加減にしなさい!」と大声で怒鳴るまで指し続けた。
そして、一度たりとも大紀に負けることはなかった。
悔しさで涙を堪える大紀を除いて、「3組で一番将棋が強いのは杉江香月」という、畏怖に似た視線が香月に注がれる。
目立つことが嫌いな香月はすでに後悔し、顔を背けてその視線から逃げ続けた。
それが、あの出会いに繋がっていくなんて、想像さえできずに。