戒められし者
十一.最後の時間
 次の日の、まだ明るい夕暮れ、スフィルが、昼寝から起きた時には、シャラが夕餉を作っているところだった。
 時間的に、まだ、五時にもなっていないだろう。
 「シャラ、どうした?こんなに早く、準備しなくても…」
 シャラは、ぐっと涙をこらえ、震える声で、こう答えた。
 「もしかしたら、今日の夜が…私とスフィルの二人で過ごす、最後の夜かもしれないんでしょ?」
 スフィルは、その言葉に胸をつかれた。
 その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れて、止まらなくなった。
 全くもって、その通りなのだ。
 もし明日、シャラが入舎ノ考査に受かれば、恐らくそこで、別れることになるだろう。
 向こうに、長居はできない。
 鼻を鳴らしながら、スフィルは、無理に笑うと、こう言った。
 「そ、そうだな。ありがとな。一緒に作るか?」
 シャラは、目を見開いた。
 最近は、シャラかスフィルが、一人で作っていた。一緒に作るなど、ここ数ヶ月、ほとんどしていない。
 「決まりだな。じゃあ、俺…魚とってくる。今は、多分子持ちだから、ご馳走にはぴったりだよ。水を、甕に入れておいてくれ。大分減ってきちゃったんだ。今から、俺が顔洗って、飲んだら、無くなっちゃうかもしれないから。よろしくな。」
 シャラが頷くなり、スフィルは、釣り具を持って家を出ていった。
 スフィルは、河で釣り糸を垂らしながら、深い悲しみに耐えていた。
 どうしてこうなったのか。
 シャラと自分が、王家の生まれじゃなかったら…普通の家に生まれて、こうやって、竪琴作りを習って、普通の兄妹として、幸せに暮らせたのだろうか。
 スフィルは、そこまで考えて、軽く首を振った。
 それは、決してありえなかっただろう。
 こうなることが、シャラと自分の、運命だったのかもしれない。
 だが、シャラを思う気持ちは、どんな環境でも、変わらなかっただろう。
 シャラを、愛しい妹として、こんなふうに、大切にしただろう。愛しただろう。
 (あの日…)
 三年前、シャラと会えたあの日、桟橋に引っかかっていた、シャラを見つけれなかった可能性もあった。
 引っかかっていたのが、シャラじゃなかったとしても、おかしくはなかった。
 そう思うと、あの再会がら本当に奇跡だったのだということを、強く実感できる。
 涙が頬を伝った。釣りどころではなかった。
 シャラにとって、自分はどんな存在なのか。
 それを、いつも自問してきた。
 シャラの気持ちは、今でも分からないが、自分はシャラのことが、本当に大切だった。
 いつも優しくて、笑顔でいてくれたシャラ。
 シャラは、妹という枠を超えて、本当に大切な宝物なのだ。
 そんなシャラと別れるなど、どうしても耐えられない。
 本当は、ウォーター学舎のことは、伏せておきたかった。
 言わなければ、シャラと一生暮らせるのだ…そう思うと、言いたくなかった。
 だが、リーガンが王になった、と聞いた瞬間、考えが、一気に変わった。
 シャラを、こんな危険なところには、絶対においておけない。
 そうやって、瞬時に思った。
 見つかって、殺されるのならまだしも、リーガンのことだ。
 シャラのことを、カウン国の本物の跡継ぎとして、連れ戻そうとするだろう。
 そう考えると、シャラをウォーター学舎に入れるほかなかった。
 もう、その道しか残されていなかった。
 だからこそ、シャラが迷いながらも決断してくれた時には、ほっとした。
 だが、その反面、とても苦しかった。
 シャラこそ、ここにとどまりたいと思っている者は、いないだろう。
 三年前、母親と酷い別れ方をして、悲しみと、不幸のどん底にいたシャラ。
 そんな時に、偶然出会ったのが、兄である、自分だったのだ。
 シャラがどこまで安心したか、容易に想像できる。
 「スフィル」
 突然名前を呼ばれて、さっと振り向いた。シャラだった。
 「な…何だ?」
 シャラは泣きそうな顔で、スフィルに言った。
 「ここで食べよう。ほら、鴨肉の野菜炒め、持ってきたの。」
 シャラが差し出した料理を、口に入れた途端、鼻の奥がつん、と痛んで涙が溢れた。
 何かしら、懐かしく、温かい味がする。
 シャラが、遠くを見るような目で、静かに話し始めた。
 「これね…お母様が作ってくれたの。あれは…処刑される、二日前だった。変わらない…たしかに、こんな味だった。リハンとテトン、キュロにシャク。お母様は、リハンの花びらを使って、鴨肉を焼いていた。三年経とうと、その動作、その味は、鮮明に覚えているのよ。とても優しい味だった。」
 シャラは、溢れ、流れる涙を、拭おうともせずに、話し続けた。
 「お母様が、処刑のために連れていかれた、ってわかった時、悟ったの。お母様が、その前日に、そんな夕餉を作ってくれたのは、一緒に寝てくれたのは…他でもない、次の日の朝に連れていかれることが、分かっていたからだったんだって。その時も、一緒に作りましょうって、言われたわ。お母様にとっては、それが最初で最後の、私との料理だった。そして二日後の朝、お母様は処刑された。無謀にも、お母様を助けに行った、私の目の前でね。」
 スフィルは、耳を疑って、シャラを凝視した。
 今から、シャラの過去が、明かされようとしている。
 「そうよ…私は、お母様を助けに行ったのよ!死罪を覚悟して!…お母様は、背を深く刺され、死ノ池に投げ込まれていた。手足を縛られ、その先に大きな石をつけられて…冷たい水だった。私も入った途端に、手足が痺れたわ。私は、お母様のことが、大好きだった。ずっと、どちらかが死ぬまで、二人で生きていきたかった。だけど、お母様は私に、幸せになりなさい、と言って、私を助けて、自分は処刑される道を、選んだわ。」
 スフィルは、寒気がこみ上げてくるのを、どうしても抑えきれなかった。
 シャラの過去は、思っていたよりも、想像していたよりも、はるかに残酷な過去だった。
 そして、リヨンの死に方はどうだろう。
 女王として、処刑される道を選んだのだ。
 スフィルは、リヨンのことを美しい人だ、と心から思った。
 どれほど、美しい心を持つ人だろう。
 普通、自分の命を投げ出してまで、他人を助けれるだろうか…それがたとえ、自分の大切な人だったとしても…。
 そんなリヨンと、十年も過ごしたシャラだ。ここまで、聡い子に育つわけだ。
 涙が、頬を伝った。
 「シャラ…ごめん…」
 「え?お兄様?」
 「俺がいれば…あの時…勘当されなければ…お前のことを、守ってやれたのに…」
 シャラは、慌てたように言った。
 「違う!スフィルのせいじゃない!…私が無力だった…助けれた…絶対に助けれた。私が、十という幼さじゃなければ…。お母様は最期、微笑んでいたわ…どうして、死を目の前にして、笑えたの…?どうして…」
 シャラの声は、ここまで聞いたこともないほど、小さくて弱々しかった。
 スフィルは、思わずシャラを抱きしめていた。
 後から後から、涙が溢れて止まらなくなった。
 これが本音だ、シャラの本音だ…
 リヨンの、母親の死に方…何よりも辛いものだった。聞いているだけで、胸が張り裂けそうになる。
 それを、目の前でシャラは見たのだ。それも十という幼い歳で…!
 父、アーシュと、喧嘩さえしなければ、シャラを助けれた…そんな悔いが、深く胸をさした。
 シャラが、ここまで物静かになるはずだ。
 そんな酷いものを、その目で見てきたのだから。
 シャラにとって、自分がどこまで、かけがえのない存在だったのか、どうして、あんなにウォーター学舎に行くことを、迷っていたのか、今になって、やっとわかった。
 シャラの過去。
 それは誰かと別れ、もう二度と会えなくなるという、トラウマが残った過去だ。
 今のシャラには、何か、大切な支えが必要なのだ。
 スフィルは、静かに話し始めた。
 「シャラ、話してくれてありがとう。言うの、辛かっただろう?だけど、お前の過去を知った今、俺は決めたよ。お前のことをウォーター学舎にいれる…いや、いれなきゃいけない。…危ないんだ。冗談抜きで、ここにいればお前が危ないんだよ。ごめんな…お前に、こんな辛い思いは、させたくない。そんなの当たり前なのに…。明日、ウォーター学舎に向かおう。もう、今日は遅い。…大丈夫さ。サリムは、ものすごく優しいんだ。安心して、暮らしていけるよ。」
 シャラは涙を流しながら、スフィルに抱きついた。
 「スフィル…ありがとう…私のことを、ここまで育ててくれて、ありがとう。スフィルがいなかったら、私はどうなっていたか分からない…本当にありがとう。」
 スフィルは泣きながら、首を振り続けた。礼を言うのは、こっちの方なのだ。
 シャラのおかげで、ここまで来れた。アーシュとリヨンに何があったのかを、しっかりと知ることが出来た。
 それに、シャラの過去…あまりにも、残酷すぎる過去だった。
 だが、シャラは、そんなことがあったのに、ずっとここまで笑ってくれた。
 (シャラは、強い)
 そう思った。どこまで強い子だろう。
 シャラにとって、どこまで辛い過去だったかは、想像もつかない。
 だが、シャラは、涙一つ見せずに、笑顔で、ここまでの三年間を、過ごしていた。
 父や母と、酷い別れ方をした挙句に、兄ともわずか三年で別れることになった。
 どれほど辛い思いだろう。
 自分でもここまで辛いのに、シャラが辛くないわけがないのだ。
 ぎゅっと、シャラを抱きしめて言った。
 「シャラ…こちらこそありがとう。俺は、シャラと出会えて、本当に幸せだった。シャラがいてくれたから、俺は幸せになれた。」
 身体を離し、シャラの目を見つめながら、ゆっくりと続けた。
 「シャラ、生きろ。必ず、生き延びろ。母上様のあとをおって、死ぬようなことは、絶対にするんじゃない。お前が頑張っていると思えば、俺も頑張れる。わかったな?生きていれば、幸せになれる瞬間も、必ずどこかで来る。だけど、死んだら、そこで終わりだ。何も残らない。俺も生きる。寿命まで生きる。だから、お前も生きろ。俺との、最後の約束だ。この約束で、俺とお前は繋がっている。絶対に忘れるなよ。本当に、三年間ありがとう。」
 シャラは頷いて、スフィルを見つめ、微笑んだ。
 シャラの穏やかな顔を見て、スフィルは微笑み返した。
 シャラはやっていける。きっと幸せになれる。
 ここまで、波乱の連続ではあっただろうが、シャラなら、この先の困難も、絶対に超えていける。
 今日この日が、きっと、自分とシャラが共に過ごす、最後の時間だ。
 (シャラ…ありがとう…)
 涙がつたい落ちるのを、止められなかったが、明日、ウォーター学舎に向かうことが、嫌じゃなくなっていた。
 どのみち、休暇には会えるのだ。ほんの半年だ。
 シャラに会える日は、とても嬉しくて、待ちきれない日になるだろう。
 シャラの顔を、頭に刻み込んだ。
 美しい「青ノ瞳」、色白の肌、風に揺れる、長い茶色の髪。
 かけがえのない、妹の顔だ。一番の、大切な宝物だ。
 きっと、一生忘れないだろう。
 外は、もう真っ暗だった。互いの顔も、よく見えないぐらいだ。
 スフィルは、これまでにない、安らかな気持ちで床についた
 こうして、ふたりが過ごす最後の時間が終わりを告げた。
 空には、星が輝いていた。
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