戒められし者
二.母との時間
空が一瞬明るくなった、と思ったその瞬間、激しい轟音が轟いた。
シャラは、読んでいた書物から顔をあげた。部屋は、薄暗かった。
まだ、昼の一時だというのに、空は真っ黒な雲に覆われて、滝のように雨が降っている。
パーン!パーン!と銃の空砲が聞こえてきて、シャラは、眉をひそめた。
(また行われているのね…。)
幼い頃から、ずっと聞きなれている音だが、シャラは、この音が大嫌いだった。
この音は、王家ノ城の隣にある、「死ノ池」で行われる刑を行うときに、撃ち鳴らされる空砲の音だ。
隣に住んでいるから、否応なしに、この音は聞こえてきてしまう。
窓の外にある、道を見下ろした。
今だに、スフィルが帰ってくる予感が抜けない。
リヨンは、泣かなくはなったが、たびたび窓の外を眺めては、深いため息をついている。
(お兄さま…)
六年前に、別れたっきりのただ一人の兄、スフィル。
自分が一番大好きで、一番信頼していた存在だった。
その本人であるスフィルは、もう六年も音沙汰がないため、今どこにいるのかも、何をしているのかも、生きているのかどうかすらも、全くわからない。
いわゆる、消息不明ということだ。
スフィルに会いたかった。
もう一度だけでいいから、兄の優しい顔や、声を、見聞きしたかった。
顔は見れなくても、生きていることや、元気だということだけでも、確認したかった。
(雨…)
そういえば、スフィルが出ていったのも、雨の日だった。
雷が轟き、滝のように降る雨…そう、まさに、今日のような天気だった。
その中で、雨具も持たずに、びしょ濡れになりながら、家を飛び出していった、スフィルの後ろ姿を、今でも、鮮明に思い出せる。
この六年間、スフィルが無事に生き延びて、どこかで暮らしていることを、切に願い続けてきた。
―もし許されるのなら、またどこかで会いたい。
シャラが六年間、ひそかに願ってきたことだった。
「シャラ。」
物思いにふけっていると、突然名を呼ばれた。
驚いて、ぱっと戸の方を振り向くと、戸口に、母のリヨンと、側近のリーガンが立っていた。
リヨンはしばらくの間、黙ってシャラの顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
「今から、昼餉を食べるわよ。広間へおいで。リーガン、シャラをつれてきてくれる?シャラ、待ってるからね。」
そういうと、リヨンは、静かに微笑んでから、広間へと行ってしまった。
「さあ、シャラ王女、私たちも向かいましょう。ああ、お体を冷やしてはいけません。どうぞ、私のこの上着を、お使いください。」
シャラは、リーガンを見て、静かに言った。
「リーガン…。あなたが、体を冷やすことになってしまうでしょう?己の体ぐらい、自分で管理できるから、大丈夫よ。」
リーガンは、きっぱりと首を振ると言った。
「いいえ、私は大丈夫です。シャラ王女のお体が、一番なのですから…。私のことなど、お気になさらず、その上着をお使いください。」
シャラは、ふっと笑って言った。
「わかったわ。ありがとう。」
昼餉を済ませ、部屋に戻ると、リヨンが来た。
「シャラ、少しお話ししましょう。今日は、時間があるからたくさん話せるかな。」
そういうなり、リヨンは、美しい首飾りと小さな白い笛を取りだして、シャラの手にのせた。
「それね、二つとも、シャラにあげるわ。私がまだ、『魔術ノ民』の一族だった頃に、持ち歩いていたものなのよ。もう使わないものだから…ね。」
そういうと、うつろな目で、窓の外を見ていた。
少しあとになって、リヨンは静かに話し始めた。
「ねえ、シャラ…私が破門された、一族の名を覚えている?」
「はい。確か…ら…じゃなくて、『魔術ノ民』でしたよね?」
「そう。でも、今あなたも言いいかけたように、私たちは『呪いノ民』と呼ばれていたのよ。」
リヨンは、すっと手を伸ばして、首飾りを手に取った。
「これはね、私の首飾りなの。美しいでしょう?ちょっと後ろを向いて。…ほら、できた。」
まだ、大きいのだろう。胸飾りになってしまっている。
リヨンは、優しく微笑んで言った。
「まだ大きいわね。でも、シャラにあげるわ。大切にしてね。」
次に、リヨンは、静かに笛を手に取った。その顔は、なぜか暗く沈んでいた。
「これはね…止め笛、っていうのよ。これを吹けば、どんな獣でも、すぐに硬直して気を失う。私も、何度もこれを使ったわ。…私はあなたに、銀色の、操りノ笛を使う、『操りノ術』を教えたでしょう?でもね、それは、決して使ってはならないと教えたわ。私も、そうやって教えられた。…なぜかわかる?」
シャラはじっと考えたあとに、首を横に振った。
「わかりません。どうしてですか?」
「…禁忌だったの。」
「え?」
「戒律でね、『操りノ術は』絶対に使ってはならない、禁忌だったのよ。使えば、死に値する大罪になる、とも言われていたわ。…だからこそ、人々を獣から守るためには、この笛が必要だったの。でもね…」
リヨンは、笛を静かに手でもてあそびながら、辛そうに言った。
「私は、この笛が嫌いだった…。いいえ…この笛というよりは、この笛を使うことが、本当に嫌だった…。人に操られるようになった獣を見るのは、何よりも嫌なことだった…。」
リヨンは、静かに目をつぶった。
「そんなときに、アーシュと会ったのよ。この笛を手放したいって、ずっと思っていたところだったから、プロポーズされて、すぐに了承したのよね…。私の目の色で、子供たちが、アーシュが、どこかで苦しんで、その幸せが崩れ去るって、頭の隅で、思っていたはずなのに…。」
目を開けて、シャラを見た。
「だから、アーシュとスフィルが喧嘩して…スフィルが出ていってしまってからは、激しい後悔しか残らなかった。シャラ…あなたに、どこまで苦しく、辛い思いをさせてきたか…本当にごめんね。」
また、パーン!パーン!と聞こえてきた。
リヨンは、顔を曇らせた。
「あれは…『生けにえノ刑』のときに鳴らされる、空砲の音よね…。また行っているのね。可哀想に…。」
シャラはよくわからなかった。
一体、何が可哀想なのか…。受刑者に対してだろうか。
―「生けにえノ刑」
それはカウン国…いや、トワラ星の中で、最も恐ろしいとされる刑だった。
人を殺めた者など、残虐な行為をした者がかけられる刑だが、そのやり方は、決して楽なものではなかった。
その名の通り、「死ノ池」に住みつく、ランギョと呼ばれる獣に、人間を生け贄として捧げるのだ。
ランギョに生きたまま喰われるために、苦痛が大きいとして、星ノ民全員から、恐れられていた。
ふと気がつくと、雨はすでに上がって、窓の外には、美しい夕暮れが広がっていた。
「あ…もうこんな時間ね。…すっかり話し込んじゃったね。先に、湯浴みをしようか。もう少し、シャラと話したいわ。」
そう言うと、リヨンとシャラは浴場に向かった。
浴室のなかで、湯に浸かっているときに、リヨンは微笑みながら言った。
「今日の夕餉は、シャラの部屋で食べようか?」
シャラはびっくりした。そんなことをするのは、何年ぶりだろうか…。
「ほ、本当に?」
「ええ。最近忙しくて、あんまり一緒にいれなかったから…そのお詫びと言ってはなんだけど、私が作ってあげるわ。何が食べたい?」
もっとびっくりした。母の手料理など、何年も食べていない。
だから、いざ、そう言われてしまうと、何でも食べたくなってしまう。
「えーっと…何でもいいです。」
リヨンは、苦笑して言った。
「何でも?それは、一番困る答えね。それじゃあ、お米の上に鴨肉を味噌に漬け込んだものと、野菜を炒めた物を乗せたものを、食べようか。作り方は簡単だし、弁当にもぴったりよ。まだ、ここではなく、放浪していた頃は、よく作ったの。せっかくだから、作り方も教えてあげるわ。一緒に作ろうね。」
「うん!」
浴室から出てから、リヨンとシャラは、調理場に向かった。
「うーん…たくさん教えようと思っているんだけど、何から始めようかな…。シャラ、とりあえず、お米を炊いてくれる?」
シャラは米を手早く洗い、竈にかけると、火打ち石で火をつけた。
「上手ね。じゃあ…そこの床にある取っ手を上に引いて、その部分をはずしてくれる?」
ぐっと力を入れて持ち上げると、中に大きめの壺が入っていた。
リヨンは、それをさっと取り出すと、木の蓋を取った。
ふわ…と、味噌の香りが部屋を満たした。
「わあ…いい香り…!」
「味噌のいい香りね。今日の鴨肉は、しっかり漬け込んであるから、とてもおいしいわよ。」
そう言うとリヨンは、箸と、何やらてかてか光る、ピンク色の大きな物を手に取った。
「…それは何?」
「これはね、リハンっていう野菜の花びらよ。色はもちろん、香りもとてもいいのよ。…ほら、嗅いでごらん。」
すっとする、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
「あ…すごい。甘酸っぱい。」
「ね?…さあ、ここからが本番なのよ。よく見ててね。」
そう言うと、リヨンは、箸で味噌をどけて、赤い鴨肉を取り出すと、リハンの花びらの上にのせた。
「え…?何をしているのですか?」
「…まあ、見てて。この花びらで、鴨肉を焼くことができるのよ。」
そういいながら、さっと鴨肉を花びらに包むと、竈の火の中に、そのままぽんと入れた。
「えっ!そうしたら、炭になってしまいますよ。」
シャラが、驚いて声を出すと、リヨンは優しく言った。
「いいえ、大丈夫よ。リハンは、実も花びらも、火にとても強いの。こうしても、まだピンク色が残っているぐらいなのよ。だから大丈夫。心配しないで。」
リヨンは、ふうっと息をついた。
「じゃあ、焼いている間に、炒め物の方に移りましょうか。」
そう言うと、リヨンは、太く赤いものを出した。
「それは?葱?」
「ん?これ?これはね、リハンの実なのよ。確かに、形は葱に似ているわね。でも、こんなに真っ赤なのに、リハンの実は、甘味と辛味と苦味の、三つの味があるのよ。…ほら、食べてごらん。…シャラ、好きかしら?この味。」
食べてみると、シャキっという音と共に、ほどよい辛味と苦味が、口のなかに広がった。そのあとには、すっとする甘味が残った。
「あ…おいしい。そこまで、味が片寄っていないから、とてもおいしいね。」
リヨンの顔に、驚いたような表情が浮かんだ。
「シャラ、すごいわね。…リハンを、苦手とする子供も多いのよ。よく食べれたわね。…じゃあ、炒めましょうか。」
気がつけば、俎の上には、リハン(葱)、テトン(芋)、キュロ(人参)、シャク(白菜)が、山のように切られていた。
リヨンは、それらをさっと炒めると、さっきどけた味噌を入れて、さらに炒めた。
「ここで、味噌も有効活用するのよ。無駄がないようにしなくてはね。」
そのあとに、リハンの花びらを取り出した。
リハンの香りと、鴨肉の香ばしい香りが、厨房を満たした。
「さあ、できたわよ。お米を盛り付けて、シャラの部屋に行きましょうか。」
頷きながら、久しぶりの母との時間に、シャラは、大きな嬉しさを感じていた。
二人は、まだ湯気のたつ料理を手に、話しながらシャラの部屋に向かった。
シャラは、読んでいた書物から顔をあげた。部屋は、薄暗かった。
まだ、昼の一時だというのに、空は真っ黒な雲に覆われて、滝のように雨が降っている。
パーン!パーン!と銃の空砲が聞こえてきて、シャラは、眉をひそめた。
(また行われているのね…。)
幼い頃から、ずっと聞きなれている音だが、シャラは、この音が大嫌いだった。
この音は、王家ノ城の隣にある、「死ノ池」で行われる刑を行うときに、撃ち鳴らされる空砲の音だ。
隣に住んでいるから、否応なしに、この音は聞こえてきてしまう。
窓の外にある、道を見下ろした。
今だに、スフィルが帰ってくる予感が抜けない。
リヨンは、泣かなくはなったが、たびたび窓の外を眺めては、深いため息をついている。
(お兄さま…)
六年前に、別れたっきりのただ一人の兄、スフィル。
自分が一番大好きで、一番信頼していた存在だった。
その本人であるスフィルは、もう六年も音沙汰がないため、今どこにいるのかも、何をしているのかも、生きているのかどうかすらも、全くわからない。
いわゆる、消息不明ということだ。
スフィルに会いたかった。
もう一度だけでいいから、兄の優しい顔や、声を、見聞きしたかった。
顔は見れなくても、生きていることや、元気だということだけでも、確認したかった。
(雨…)
そういえば、スフィルが出ていったのも、雨の日だった。
雷が轟き、滝のように降る雨…そう、まさに、今日のような天気だった。
その中で、雨具も持たずに、びしょ濡れになりながら、家を飛び出していった、スフィルの後ろ姿を、今でも、鮮明に思い出せる。
この六年間、スフィルが無事に生き延びて、どこかで暮らしていることを、切に願い続けてきた。
―もし許されるのなら、またどこかで会いたい。
シャラが六年間、ひそかに願ってきたことだった。
「シャラ。」
物思いにふけっていると、突然名を呼ばれた。
驚いて、ぱっと戸の方を振り向くと、戸口に、母のリヨンと、側近のリーガンが立っていた。
リヨンはしばらくの間、黙ってシャラの顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
「今から、昼餉を食べるわよ。広間へおいで。リーガン、シャラをつれてきてくれる?シャラ、待ってるからね。」
そういうと、リヨンは、静かに微笑んでから、広間へと行ってしまった。
「さあ、シャラ王女、私たちも向かいましょう。ああ、お体を冷やしてはいけません。どうぞ、私のこの上着を、お使いください。」
シャラは、リーガンを見て、静かに言った。
「リーガン…。あなたが、体を冷やすことになってしまうでしょう?己の体ぐらい、自分で管理できるから、大丈夫よ。」
リーガンは、きっぱりと首を振ると言った。
「いいえ、私は大丈夫です。シャラ王女のお体が、一番なのですから…。私のことなど、お気になさらず、その上着をお使いください。」
シャラは、ふっと笑って言った。
「わかったわ。ありがとう。」
昼餉を済ませ、部屋に戻ると、リヨンが来た。
「シャラ、少しお話ししましょう。今日は、時間があるからたくさん話せるかな。」
そういうなり、リヨンは、美しい首飾りと小さな白い笛を取りだして、シャラの手にのせた。
「それね、二つとも、シャラにあげるわ。私がまだ、『魔術ノ民』の一族だった頃に、持ち歩いていたものなのよ。もう使わないものだから…ね。」
そういうと、うつろな目で、窓の外を見ていた。
少しあとになって、リヨンは静かに話し始めた。
「ねえ、シャラ…私が破門された、一族の名を覚えている?」
「はい。確か…ら…じゃなくて、『魔術ノ民』でしたよね?」
「そう。でも、今あなたも言いいかけたように、私たちは『呪いノ民』と呼ばれていたのよ。」
リヨンは、すっと手を伸ばして、首飾りを手に取った。
「これはね、私の首飾りなの。美しいでしょう?ちょっと後ろを向いて。…ほら、できた。」
まだ、大きいのだろう。胸飾りになってしまっている。
リヨンは、優しく微笑んで言った。
「まだ大きいわね。でも、シャラにあげるわ。大切にしてね。」
次に、リヨンは、静かに笛を手に取った。その顔は、なぜか暗く沈んでいた。
「これはね…止め笛、っていうのよ。これを吹けば、どんな獣でも、すぐに硬直して気を失う。私も、何度もこれを使ったわ。…私はあなたに、銀色の、操りノ笛を使う、『操りノ術』を教えたでしょう?でもね、それは、決して使ってはならないと教えたわ。私も、そうやって教えられた。…なぜかわかる?」
シャラはじっと考えたあとに、首を横に振った。
「わかりません。どうしてですか?」
「…禁忌だったの。」
「え?」
「戒律でね、『操りノ術は』絶対に使ってはならない、禁忌だったのよ。使えば、死に値する大罪になる、とも言われていたわ。…だからこそ、人々を獣から守るためには、この笛が必要だったの。でもね…」
リヨンは、笛を静かに手でもてあそびながら、辛そうに言った。
「私は、この笛が嫌いだった…。いいえ…この笛というよりは、この笛を使うことが、本当に嫌だった…。人に操られるようになった獣を見るのは、何よりも嫌なことだった…。」
リヨンは、静かに目をつぶった。
「そんなときに、アーシュと会ったのよ。この笛を手放したいって、ずっと思っていたところだったから、プロポーズされて、すぐに了承したのよね…。私の目の色で、子供たちが、アーシュが、どこかで苦しんで、その幸せが崩れ去るって、頭の隅で、思っていたはずなのに…。」
目を開けて、シャラを見た。
「だから、アーシュとスフィルが喧嘩して…スフィルが出ていってしまってからは、激しい後悔しか残らなかった。シャラ…あなたに、どこまで苦しく、辛い思いをさせてきたか…本当にごめんね。」
また、パーン!パーン!と聞こえてきた。
リヨンは、顔を曇らせた。
「あれは…『生けにえノ刑』のときに鳴らされる、空砲の音よね…。また行っているのね。可哀想に…。」
シャラはよくわからなかった。
一体、何が可哀想なのか…。受刑者に対してだろうか。
―「生けにえノ刑」
それはカウン国…いや、トワラ星の中で、最も恐ろしいとされる刑だった。
人を殺めた者など、残虐な行為をした者がかけられる刑だが、そのやり方は、決して楽なものではなかった。
その名の通り、「死ノ池」に住みつく、ランギョと呼ばれる獣に、人間を生け贄として捧げるのだ。
ランギョに生きたまま喰われるために、苦痛が大きいとして、星ノ民全員から、恐れられていた。
ふと気がつくと、雨はすでに上がって、窓の外には、美しい夕暮れが広がっていた。
「あ…もうこんな時間ね。…すっかり話し込んじゃったね。先に、湯浴みをしようか。もう少し、シャラと話したいわ。」
そう言うと、リヨンとシャラは浴場に向かった。
浴室のなかで、湯に浸かっているときに、リヨンは微笑みながら言った。
「今日の夕餉は、シャラの部屋で食べようか?」
シャラはびっくりした。そんなことをするのは、何年ぶりだろうか…。
「ほ、本当に?」
「ええ。最近忙しくて、あんまり一緒にいれなかったから…そのお詫びと言ってはなんだけど、私が作ってあげるわ。何が食べたい?」
もっとびっくりした。母の手料理など、何年も食べていない。
だから、いざ、そう言われてしまうと、何でも食べたくなってしまう。
「えーっと…何でもいいです。」
リヨンは、苦笑して言った。
「何でも?それは、一番困る答えね。それじゃあ、お米の上に鴨肉を味噌に漬け込んだものと、野菜を炒めた物を乗せたものを、食べようか。作り方は簡単だし、弁当にもぴったりよ。まだ、ここではなく、放浪していた頃は、よく作ったの。せっかくだから、作り方も教えてあげるわ。一緒に作ろうね。」
「うん!」
浴室から出てから、リヨンとシャラは、調理場に向かった。
「うーん…たくさん教えようと思っているんだけど、何から始めようかな…。シャラ、とりあえず、お米を炊いてくれる?」
シャラは米を手早く洗い、竈にかけると、火打ち石で火をつけた。
「上手ね。じゃあ…そこの床にある取っ手を上に引いて、その部分をはずしてくれる?」
ぐっと力を入れて持ち上げると、中に大きめの壺が入っていた。
リヨンは、それをさっと取り出すと、木の蓋を取った。
ふわ…と、味噌の香りが部屋を満たした。
「わあ…いい香り…!」
「味噌のいい香りね。今日の鴨肉は、しっかり漬け込んであるから、とてもおいしいわよ。」
そう言うとリヨンは、箸と、何やらてかてか光る、ピンク色の大きな物を手に取った。
「…それは何?」
「これはね、リハンっていう野菜の花びらよ。色はもちろん、香りもとてもいいのよ。…ほら、嗅いでごらん。」
すっとする、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
「あ…すごい。甘酸っぱい。」
「ね?…さあ、ここからが本番なのよ。よく見ててね。」
そう言うと、リヨンは、箸で味噌をどけて、赤い鴨肉を取り出すと、リハンの花びらの上にのせた。
「え…?何をしているのですか?」
「…まあ、見てて。この花びらで、鴨肉を焼くことができるのよ。」
そういいながら、さっと鴨肉を花びらに包むと、竈の火の中に、そのままぽんと入れた。
「えっ!そうしたら、炭になってしまいますよ。」
シャラが、驚いて声を出すと、リヨンは優しく言った。
「いいえ、大丈夫よ。リハンは、実も花びらも、火にとても強いの。こうしても、まだピンク色が残っているぐらいなのよ。だから大丈夫。心配しないで。」
リヨンは、ふうっと息をついた。
「じゃあ、焼いている間に、炒め物の方に移りましょうか。」
そう言うと、リヨンは、太く赤いものを出した。
「それは?葱?」
「ん?これ?これはね、リハンの実なのよ。確かに、形は葱に似ているわね。でも、こんなに真っ赤なのに、リハンの実は、甘味と辛味と苦味の、三つの味があるのよ。…ほら、食べてごらん。…シャラ、好きかしら?この味。」
食べてみると、シャキっという音と共に、ほどよい辛味と苦味が、口のなかに広がった。そのあとには、すっとする甘味が残った。
「あ…おいしい。そこまで、味が片寄っていないから、とてもおいしいね。」
リヨンの顔に、驚いたような表情が浮かんだ。
「シャラ、すごいわね。…リハンを、苦手とする子供も多いのよ。よく食べれたわね。…じゃあ、炒めましょうか。」
気がつけば、俎の上には、リハン(葱)、テトン(芋)、キュロ(人参)、シャク(白菜)が、山のように切られていた。
リヨンは、それらをさっと炒めると、さっきどけた味噌を入れて、さらに炒めた。
「ここで、味噌も有効活用するのよ。無駄がないようにしなくてはね。」
そのあとに、リハンの花びらを取り出した。
リハンの香りと、鴨肉の香ばしい香りが、厨房を満たした。
「さあ、できたわよ。お米を盛り付けて、シャラの部屋に行きましょうか。」
頷きながら、久しぶりの母との時間に、シャラは、大きな嬉しさを感じていた。
二人は、まだ湯気のたつ料理を手に、話しながらシャラの部屋に向かった。