戒められし者
二十四.シャラの決意
 「なんですって?」
 シャラから話を聞いたサリムは、わずかに口を開けたまま、固まっていた。
 「いえ…だから、あの…私の叔父にあたる方が…私に会いに来て…」
 名前を出していいかどうか…一番迷っている事だった。
 『あのサリムとかいう人にも、よろしくな。』
 ハジャレンの声がよみがえってきた。
 「サリム先生は…母の本名を知っていますか?」
 サリムは首をかしげた。
 「さあ…?リヨン・カウンじゃないの?」
 シャラは微笑むと言った。
 「それは、私の父、アーシュ・カウンの元に嫁いだ時の名前です。母は、一族にいた頃、リヨン・バス・アスジオという名で暮らしていたそうです。」
 「バス…アスジオ?」
 シャラは頷いた。
 「そうです。魔術ノ民は、いくつかの一族に分かれていて、母は、バス族のアスジオ家にいたということになります。」
 サリムは、納得した表情を見せた。
 「なるほどね…。私の本名である、サリミアという名前は、母上の兄がつけたということは聞いているの。母上は、兄は一人しかいないと生前話していたから…きっと、シャラが出会った人ね。」
 サリムは顔を上げ、こう言った。
 「その方の名前は、なんと言うの?」
 「ハジャレン・バス・アスジオと名乗っていました。」
 サリムがふっと悲しげな目になって、外を見た。
 「ハジャレン…間違いない、私の名付け親となったのは、その人だわ。」
 シャラは目の前がぼやけてきて、うろたえた。
 母は、一人ではなかったのだ。
 一族を破門される道を選んだリヨンを、ハジャレンは見捨てず、ずっと共にいて、サリムの名前もつけた。
 (お父様が亡くなっても、お母様が心を強く保てたのは…ハジャレン叔父様がいたから…)
 涙が流れ落ちた。
 「シャラ!?」
 サリムに向かって、何でもない、と首を振りながら考えた。
 たとえ妹が一族から離れても、ハジャレンはリヨンを忘れなかったのだろう。
 愛する妹として、遠くからではあるものの、ずっと見守っていたのだ。
 母は、夕刻にバルコニーに出るのが日課だった。
 『夕日を見るのよ。』
 そうやってささやいた母の視線は、夕日ではなく、死ノ池の周りを取り囲む、深い森の方に向いていた。
 あの時、森にはハジャレンがいたのだろう。
 バルコニーで、自分と娘を見せることで、今は幸せだと言うことを、ハジャレンに伝えていたのだろう。
 だが、ハジャレンが見たのは、幸せそうなリヨンだけではないはずだ。
 あの日―母が処刑された日―も、きっと森にいたに違いない。
 そうでなければ、操りノ術が使われた、など分かるはずもないからだ。
 『操りノ術は、危険な術だ。決して人前で使ってはならないもので、使えば死に値する大罪とされている術だ。それを目の前で使われた者を、我々が探さないとでも?』
 ハジャレンはそう言っていたが、自分を探したのは、それだけの理由ではないはずだ。
 現に、力になるというようなことを口にしていた。
 リヨンの首飾りを見ながら、静かに泣いていたハジャレン。あの時、自分の顔に対して、無意識にリヨンの面影を重ねたからこそ、涙が出たのだろう。
 それだけ、リヨンとハジャレンは強い絆で結ばれていたのだ。
 自分とスフィルなど、足元にも及ばないほど、固い絆で。
 それをサリムに話すと、サリムは微笑んだ。
 「そう……確かにあなたは、母上様にそっくりだわ。顔も性格も何もかも。ハジャレンが、あなたのことを守ろうとする気持ちはよくわかる。…あなたのことは、なぜか守ってあげたくなるのよ。とても頑張りやさんで、聡い子だから。」
 シャラはサリムに問うた。
 「あの…双子と聞きましたが、サリム先生とスフィルは、似てるんですか?」
 サリムはいたずらっぽく笑いながら、こう聞き返してきた。
 「あなたはどう思う?」
 シャラは、はっとした。
 笑い方が、笑った時の顔が…スフィルにそっくりだ。
 そう言うと、サリムが眉を上げた。
 「あら、そうなの?私とスフィルは、双子のわりには、全然似てない双子、って言われてたのよ。笑い方が似てる…初めて言われたわね。それが、まさか実の妹だとは想像もつかなかったわ。」
 シャラは、思わず吹き出して、そのまま笑った。息が苦しくなるくらい、笑い転げた。
 久しぶりに、こんな小さな冗談を面白いと思った。
 その時、リューサを始めとする学舎の仲間たちが、その声を聞いて、走り込んできた。
 リューサたちは、夢を見ているのかと思った。
 シャラが笑っている。あれほど涙しか見せなかったシャラが、声を上げて笑っている。
 サリムの方を見ると、サリムは涙を浮かべて、ゆっくりと頷いていた。
 ―やっと、シャラが笑えた。
 目が、そう語っていた。
 サリムは、リューサとシャラだけを残し、決心したような顔をすると、こう言った。
 「リューサ…話さなくてはならないことがあるの。」
 リューサは、なんでも話してください、と言うかのように、静かに頷いた。
 「私とシャラは…血の繋がった姉妹なの…。」
 リューサがさっと顔色を変えた。
 シャラは、笑いを収めてはいたが、顔色一つ変えずに聞いていた。
 「私の本当の名は、サリミア・カウンというの。あの…色々な意味で有名な…リヨン女王の元に生まれたのよ。けれど七歳の時、シャラが生まれて…私は養子に出されたわ。」
 リューサがおずおずと聞いた。
 「シャラを…恨むことはしなかったんですか…?」
 サリムは、ふっと微笑んだ。
 「いいえ…最初は、本当に憎らしかった。シャラさえ生まれなければ、私はレッカー家に養子に出されることなんて、なかったんだもの。それに、双子の兄であるスフィルは、養子に出されなかったから、なおさらだったわ。」
 シャラが、震える声で聞いた。
 「今でも…恨んでいますか?」
 サリムは、静かに首を振った。
 「…あなたが、スフィルに連れられてここに来た時、私は何も知らないふりをしたけど、あなたが、リヨン・カウン…母上様の娘だということが、すぐに分かった。私が、養子に出される元凶となった、血の繋がった妹だと…それなのに…とても恨んでいたはずなのに…この子を守らなきゃって思ったわ。」
 シャラは、サリムの顔に、スフィルの顔と、リヨンの顔を交互に見た気がした。
 今、目の前にいるのは、サリムではない。
 自分と血の繋がった姉、サリミア・カウンだ。
 シャラは目を閉じて、じっと考えこんでいたが、やがて顔を上げると、こう言った。
 「サリム先生、マーサー王たちを…ここに招いてくださいませんか。」
 サリムは、はたと動きを止めた。
 「何を言っているの?そんなことをしたら、あなたが危なくなるのよ?」
 リューサも、驚きに満ちた顔で、シャラを見つめている。
 「…リーガンと、もう一度話したいのです。王たちにも、知ってほしいのです。私がどんな道を歩み、どれほど苦しんできたのか、分かってほしい。もう、隠れて怯えながら暮らす生活は、嫌なんです。」
 シャラの青い目を見つめながら、サリムはため息をついた。
 「本気で言っているの?自分で自分の首を絞めるつもり?大体、そんなことをしても、リーガンと話しても、母上様たちは戻ってこないのよ?」
 その時、シャラがバンッと音を立てて、机を平手で叩いた。
 リューサもサリムも、びくっとしてシャラを見つめた。
 シャラは、涙を浮かべながら、話し始めた。
 「それを、私が分からないとでも思っているのですか!?…私は、ハジャレン叔父様に、バス族に来ないか、と言われました!だけど、サリム先生やリューサ先輩が大切だから、こっちに残ることを決めたんです!だけど、私にとっての脅威は、あなた方お二人の脅威ともなりうるんです!」
 シャラの目から、涙が溢れて、頬を伝った。
 「私はそんなの嫌です!これは、私の問題です!私の問題は、私自身で解決すると言っているんです!誰のことも巻き込む必要なんてない!私のことを思って、守ろうとしてくださっていることは、深く感謝しています!でも、これ以上誰も巻き込みたくないんです!失いたくないんです!どうか分かってください!」
 サリムとリューサは、声も無く、シャラを見つめていた。
 まだ、わずか十三歳。
 本当なら、何も考えずに、勉強していればいい年齢だ。
 先生や友達と、たくさん笑って、色々な話をして、寮で共同生活することで、たくさんの人と親密な関係になれる年齢だ。
 それなのにシャラは…その年齢で、自分の問題に向き合い、仲間を助けようとしている。
 シャラのことを、守らなくてはならない先輩や教導ノ師である自分たちを、反対に守ろうとしてくれている。
 サリムは、そっとシャラの手を取った。
 「あなたの意思を…尊重するわ。でも、決して忘れないで。私とリューサを含めて、この学舎のみんなは、あなたの仲間よ。」
 シャラは、微笑んで頷いた。
 これまでにない、穏やかな笑顔だった。
 シャラは、覚悟を決めたのだ。
 自分がこれから歩まねばならない道から、目を背けようともせず、戦おうとしているのだ…。
 
 シャラが、カヤンの世話があるから、と言って、出ていってから、サリムは、そばにリューサがいることも忘れ、ぼんやりと考えた。
 (あの子は…)
 強いわけではない…。その環境に対する対応が、ただ早いだけだ。
 当たり前だ。ここまで、どれほど苦しく、辛く、暗い世界を歩んできたか、想像もつかない。
 ここまで生きてくるために、シャラは、幸せな世界も、悲しみの世界も、苦しい世界も…どんな世界でも対応しないといけなかったのだ。
 それがどれほど苦しいことか…どれほど辛いことか…。
 シャラは、めったに感情を表に出さない。
 あの静かな表情の裏に、どれほどの苦悩が隠れているのだろう…どれほどの辛辣な人生が隠れているのだろう…。
 リューサも同じことを考えていたのだろう。
 ふいに、かすれた声で呟いた。
 「…あいつ、これからどうなるんだろう…」
 サリムも、ため息をついた。
 シャラがこれから進む道が、どれほど過酷なものになるか…どれほど苦しいものになるか…どれほどの脅威に晒されるものになるか…。
 今まで、遠いものだと考えていたことが、ふいに現実味を帯びてきて、思わず身震いした。
 (もし…)
 スフィルと、もう一度会えなければ…あのまま王家で暮らしていれば…シャラは、幸せにここまで来れたのだろうか…。
 サリムは、静かに首を振った。
 (それは…無いか…)
 スフィルと別れる時、スフィルの死を知った時、激しく泣いていたシャラ。
 シャラにとってのスフィルは、一番近い存在であり、一番信用出来る存在だった。
 そのスフィルに会えたことは、母を失ったシャラが生き続ける、大切な支えになったはずだ。
 (スフィル…私は…どうすればいいの…?)
 スフィルなら、なんと言ってくれるのだろうか…。
 とにかく、王たちに手記ノ紙を出さねばならない。シャラの決意を伝えねばならない。
 サリムは、重い手を動かし、ペンをとった。
 外は、雷が鳴り、雨が降っていた。
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