戒められし者
五.最後の言葉
「死ノ池」には、すぐについた。
まだ夜が明けきっていないため、周りは、夜目が効く自分ですら、ほとんど見えないほどに、真っ暗だった。
急に、すぐ横で声がして、慌ててしゃがんだ。
幸い周りには、背の高い草が生えていたために、シャラが見つけられる心配はなかった。
「そろそろ連れてこい。あと少しで処刑の開始時刻だからな。」
二人いるのだろう。
もう一人が、ぼそぼそと何かを言ったのがわかった。
それを聞き終えた最初の指揮官らしき男が、低い声で言った。
「…何だと?城から、王女が消えた?」
シャラは、びくっと体を揺らした。まさか、もう気づかれたのだろうか…。
指揮官らしき男は、ふっと嘲笑うと言った。
「まあ、いいさ。どのみち、もう母親には、会えんだろうからな。…ああ、連れてきたか。舟はこっちだ。ここまで連れてこい。」
シャラは、ふと気づいた。この兵の声に、聞き覚えがあるのだ。
(そんなこと…)
絶対にあるわけがない。
「生けにえノ刑」を行うのは、アントナ国出身の者だと、聞いたことがある。自分は、まだ一度も、カウン国の外に出たことがないから、アントナ国の者の声など、聞いたことがないはずなのだ。
そっと、草の間から覗いた。
薄暗くて見えづらかったが、目が慣れてきた今なら、大体わかる。アントナ国の衣だった。
さっきの指揮官らしき男に、別の兵が話しかけた。
それを聞いた瞬間、思わず声をあげそうになった。
「準備完了です!…そういえばリーガン隊長、マーサー王が、リーガンはちゃんとやっているのか、ともうしておりましたよ。」
(…リーガン?)
もう一度しっかり見ると、指揮官らしき男は…リーガンだった。
リーガンが、苛立った声をあげた。
「何で、そんなことをあいつが心配するんだ!あいつは、俺の親じゃない!余計な心配はしなくてもいいって、伝えておけ!もう夜明けだ。行くぞ。」
兵たちがどこかに行くのがわかったが、シャラは動けなかった。
(マーサー?つまりリーガンは…王家の息子?そして立場的には…王子?私と同じ立場だった?)
ならば、どうして自分に仕えていたのか。スフィルと同じ状況だということなのか。
パーン!パーン!という聞き慣れた音がして、シャラは我に返った。
そっと水辺まで行くと、短刀を腰にさして、短靴のまま水に入った。かなり冷たい水で、すぐに手足の先が痺れた。
この中に母が入れられてランギョに食われると思うと、身の毛がよだつ思いになる。
水音がした。母が池に落とされたのだ。
その音に向かって、必死に泳ぎ始めたが、かなり遠い…急いでいかないと、母がランギョに食べられてしまう。
シャラは、浮いては沈んでを繰り返しながら、母の方に向かっていった。
リヨンは、必死に城の方向に目をやろうとしていた。
シャラに伝えなくてはならない…リーガンが危険だと。
だが、バルコニーに、シャラの姿はない。
(シャラ…どこに行ったの?)
昨日は、一日中拷問をされた。
そして、背中を深く刺されてから、水の中に落とされたのだ。
背中は見えなくとも、血が流れていくのがよくわかる。
(もう…無理…)
痛みと眠気で、意識が遠のいていく…。
失いかけた意識を、何とか引き戻し、必死で目をこじ開けたリヨンは、血の気が引くのを感じた。
何かが向かってくる。
(まさか…ランギョが…もう?)
いや、よく見ると違う。それが何であるかわかって、リヨンは愕然とした。
(シャラ…!)
見間違いではない。シャラだ。愛する娘だ。
ここから岸までは、かなり離れている。
ここまでに、どれほどの長い時間をかけて、泳いできたのだろう。
自分を助けるためだけに、こんなに危険な池に入ったというのか…!
リヨンは、目が熱くなるのがわかった。
無駄だとは思ったが、必死でシャラの方に進もうとした。
「シャラ!おいで!」
シャラは浮きつ沈みつ、進んでくる。
泳ぎが得意とはいえ、服を着たまま、これだけの長い距離を泳いでいるのだ。体力が持たないのだろう。
その数秒後、何とかシャラはたどり着いた。
シャラは激しく咳き込みながらも、こう言った。
「お…お母様…。手の…縄を…切りま…す…」
「切るって…こんな水を吸った太縄、そんな簡単には切れないわよ?一体どうやって…」
シャラは、得意気に腰から短刀を抜いた。
「それは…アーシュの…」
朝日に照らされ、光る短刀を見た瞬間、リヨンの目に涙が溢れた。
アーシュからもらった、シャラの宝物だ。自分を助けるためだけに、持ってきたのだ。
「大丈夫?潜らないと無理だけど…。」
シャラは頷くなり、息を止めて、リヨンの手元に潜っていった。
シャラが縄を切っているときに、リヨンはふと気づいた。
岸から大勢の人が見ている。
この刑の傍観者たちだ。ほとんどがカウン国の民だ。
その集団の先頭で、馬に乗ってこちらを見ている者がいる。
シャラに気づいたのだろう。真っ青な顔をしているのが、ここからでもよくわかる。
見慣れたその顔を見て、リヨンはため息をついた。
(リーガン…。)
裏切り者、と心の中で罵った。あれほど信頼していたのに、いとも簡単に裏切った、シャラの側近だ。
(シャラが、どれほどあなたを信頼していたか、あなたにはわからないでしょうね。どれだけ、愚かな男なの。)
そこまで罵ったとき、手が自由になったのがわかった。
シャラが縄を切り終わったのだ。
苦しそうに水面に浮かんできたシャラを、リヨンはきつく抱き締めた。
「ありがとう…本当にありがとう…。怖かったでしょう?寒かったでしょう?こんなに体が冷えきって…ごめんね…守ってやれなくて、本当にごめんね…。」
シャラの短刀を借りて、足の縄もさっと切ると、短刀を鞘に入れて、ささやいた。
「行くわよ。逃げましょう。」
だが、泳ぎはじめてすぐ、わずかな水の流れを感じて、リヨンは動きを止めた。
(まずい…)
ランギョがいる。
そっと波をたてないようにして、後ろに戻り始めた。
と、小さな水音が、背後で聞こえた。
リヨンは、真っ青な顔で周りを見渡した。
嫌な予感が当たった。二人の周りは、ランギョでいっぱいになっていたのだ。
リヨンは、そっとシャラを見た。
今、自分の身に何が起こっているのか、理解できないのだろう…怯えと不安が入り交じった顔をしている。
リヨンは唇を噛んだ。
『生きるか死ぬか。』
それは一番決断しがたいものだった。
ここで共に死んでもいい。この子の目の色は、行く先々で、この子を苦しめることになるだろう。
自分も、どこまで苦しんできたかわからない。
そんな苦しい人生をシャラには送ってほしくなかった。
そう考えると、二人でこのまま死んだ方が、まだ、ましなのかもしれない。
その反面、二人で生き延びて、共に幸せな人生を送りたいという気持ちもあった。
シャラは、まだ十歳。
そんな幼い歳で、母親を亡くすなど、耐えられないだろう。
だが、こんな深い傷を負った自分が、助かる望みなど、ほとんどないに等しかった…。
たとえ助かったとしても、自分は長くないだろう。
それでも、シャラの人生はまだ長い。
(たとえ、どんなことがあったとしても、シャラには、幸せになってほしい。なんとしてでも、生きのびてほしい…。)
一つだけ…たった一つだけ、シャラを助ける方法がある。
リヨンは、迷いに迷っていた。
『リヨン、いいか?よく聞け。この方法は、禁忌だ。決して人前で使ってはならないものだ。もし、これを使えば、死に値する大罪となるということを、忘れるな。』
自分が、そうやって厳しく教え込まれ、シャラにも、そうやって教え込んできた。
今、自分が考えていることを実行すれば、シャラが絶望するのは確実だ。
その術を使う=自分が死ぬ、ということなのだから。
リヨンは目をつぶって、心の中でアーシュに語りかけた。
(アーシュ…あなたならどうする?)
アーシュなら、どんな方法を使ってでも、シャラのことを助けるだろう。
たとえ、自分が死ぬとしても。
もう葛藤は、無くなっていた。
自分の手から、無意識に滑り落ちたのだろう。短刀を見つけ、鞘の中に収めてから、シャラの腰に差し込むと、早口でささやいた。
「シャラ。ここからは私の言うことを、必ず聞いてちょうだい。今から、特別なものを使って、あなたのことを助けてあげる。この国から逃がしてあげる。ここにいたら、あなたも殺されてしまう。でも、私が今からすることを、この先、絶対にしてはならないよ。私は、死を選ぶものとして、ふさわしいものを使うのだから。」
シャラは、母が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「それは、どういう…」
何かを言いかけたシャラを、手で止めると、リヨンは静かに、止め笛とは違う、銀色の笛を出して、口に当てた。
(『操りノ笛』…!)
それを見た瞬間、シャラは母の言葉の意味を、全て悟った。
「お、お母様!だめ!」
シャラの叫び声が聞こえたが、聞こえないふりをした。そして、深く息を吸い込むと、笛を力いっぱい吹き鳴らした。
ピィー…!
高々と、笛の音が池に響き渡った。間髪いれずに、さらに抑揚をつけて吹き鳴らした。
その瞬間、ランギョたちが一斉に動きを止めた、と思いきや一匹のランギョが、こちらにすうっと近づいてきた。
「えっ…」
「大丈夫よ。シャラ、ランギョの背に乗りなさい。…そう、上手よ。」
リヨンは、乗るときに抜け落ちた短刀を、腰に差し直してくれた。
やっとのことで乗ると、シャラは、母に向かって手を差し出した。
「お母様!捕まってください!」
だが、リヨンはその手を取らなかった。そのかわりにシャラの顔を見て、静かに微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
その目は、優しさと悲しみに満ちていた。
シャラは、はっとした。
『私が身代わりになるから、行きなさい。』
母は、そう言っているのだ。
自分はここで死ぬから、あなたは生きなさい、ということを。
シャラの目に涙が溢れた。
あまりにも突然すぎる別れ。まだ一緒にいたかった。
でも、それはもう、叶う願いではない。
母とは、ここで別れなのだ。もう、会うことはない。
今から母が自分を逃がしてくれる…恐らく自分は助かるだろう。
だが、母はここで一生を終えるのだ。
シャラは涙を流しながら、手を差し出したままだった。
リヨンは、シャラの手をそっと下ろした。そして、もう一度静かに微笑んだ。
「シャラ…あなたは幸せになれる。だから、生き延びて幸せになりなさい。」
そういうと、シャラが何かを言う間もなく、笛を吹いた。
笛が鳴った瞬間、ランギョは河に向かって、凄まじい速さで泳ぎ始めた。
何もできなかった。捕まっているのがやっとのスピードだった。
「お母様!お母様!」
焦って叫ぶと、背後から、母の声が聞こえた。
「振り返ってはだめよ!前を向いて捕まっていなさい!あなたは幸せになれる!生きて幸せになりなさい!」
それが、母の最後の言葉になった。
母がそう言った瞬間、後ろで水柱が上がる音が聞こえた。
見たくなかったが、見ずとも分かる。
母に、ランギョが襲いかかったのだ。
「嫌だ…お母様!お母様!」
必死で泣き叫んだけど、もう何も返ってこなかった。
そのままランギョは池から流れ出る河に乗って、カウン国から出ていった。
そのランギョを、シャラはおろか誰も止めることはできなかった。
まだ夜が明けきっていないため、周りは、夜目が効く自分ですら、ほとんど見えないほどに、真っ暗だった。
急に、すぐ横で声がして、慌ててしゃがんだ。
幸い周りには、背の高い草が生えていたために、シャラが見つけられる心配はなかった。
「そろそろ連れてこい。あと少しで処刑の開始時刻だからな。」
二人いるのだろう。
もう一人が、ぼそぼそと何かを言ったのがわかった。
それを聞き終えた最初の指揮官らしき男が、低い声で言った。
「…何だと?城から、王女が消えた?」
シャラは、びくっと体を揺らした。まさか、もう気づかれたのだろうか…。
指揮官らしき男は、ふっと嘲笑うと言った。
「まあ、いいさ。どのみち、もう母親には、会えんだろうからな。…ああ、連れてきたか。舟はこっちだ。ここまで連れてこい。」
シャラは、ふと気づいた。この兵の声に、聞き覚えがあるのだ。
(そんなこと…)
絶対にあるわけがない。
「生けにえノ刑」を行うのは、アントナ国出身の者だと、聞いたことがある。自分は、まだ一度も、カウン国の外に出たことがないから、アントナ国の者の声など、聞いたことがないはずなのだ。
そっと、草の間から覗いた。
薄暗くて見えづらかったが、目が慣れてきた今なら、大体わかる。アントナ国の衣だった。
さっきの指揮官らしき男に、別の兵が話しかけた。
それを聞いた瞬間、思わず声をあげそうになった。
「準備完了です!…そういえばリーガン隊長、マーサー王が、リーガンはちゃんとやっているのか、ともうしておりましたよ。」
(…リーガン?)
もう一度しっかり見ると、指揮官らしき男は…リーガンだった。
リーガンが、苛立った声をあげた。
「何で、そんなことをあいつが心配するんだ!あいつは、俺の親じゃない!余計な心配はしなくてもいいって、伝えておけ!もう夜明けだ。行くぞ。」
兵たちがどこかに行くのがわかったが、シャラは動けなかった。
(マーサー?つまりリーガンは…王家の息子?そして立場的には…王子?私と同じ立場だった?)
ならば、どうして自分に仕えていたのか。スフィルと同じ状況だということなのか。
パーン!パーン!という聞き慣れた音がして、シャラは我に返った。
そっと水辺まで行くと、短刀を腰にさして、短靴のまま水に入った。かなり冷たい水で、すぐに手足の先が痺れた。
この中に母が入れられてランギョに食われると思うと、身の毛がよだつ思いになる。
水音がした。母が池に落とされたのだ。
その音に向かって、必死に泳ぎ始めたが、かなり遠い…急いでいかないと、母がランギョに食べられてしまう。
シャラは、浮いては沈んでを繰り返しながら、母の方に向かっていった。
リヨンは、必死に城の方向に目をやろうとしていた。
シャラに伝えなくてはならない…リーガンが危険だと。
だが、バルコニーに、シャラの姿はない。
(シャラ…どこに行ったの?)
昨日は、一日中拷問をされた。
そして、背中を深く刺されてから、水の中に落とされたのだ。
背中は見えなくとも、血が流れていくのがよくわかる。
(もう…無理…)
痛みと眠気で、意識が遠のいていく…。
失いかけた意識を、何とか引き戻し、必死で目をこじ開けたリヨンは、血の気が引くのを感じた。
何かが向かってくる。
(まさか…ランギョが…もう?)
いや、よく見ると違う。それが何であるかわかって、リヨンは愕然とした。
(シャラ…!)
見間違いではない。シャラだ。愛する娘だ。
ここから岸までは、かなり離れている。
ここまでに、どれほどの長い時間をかけて、泳いできたのだろう。
自分を助けるためだけに、こんなに危険な池に入ったというのか…!
リヨンは、目が熱くなるのがわかった。
無駄だとは思ったが、必死でシャラの方に進もうとした。
「シャラ!おいで!」
シャラは浮きつ沈みつ、進んでくる。
泳ぎが得意とはいえ、服を着たまま、これだけの長い距離を泳いでいるのだ。体力が持たないのだろう。
その数秒後、何とかシャラはたどり着いた。
シャラは激しく咳き込みながらも、こう言った。
「お…お母様…。手の…縄を…切りま…す…」
「切るって…こんな水を吸った太縄、そんな簡単には切れないわよ?一体どうやって…」
シャラは、得意気に腰から短刀を抜いた。
「それは…アーシュの…」
朝日に照らされ、光る短刀を見た瞬間、リヨンの目に涙が溢れた。
アーシュからもらった、シャラの宝物だ。自分を助けるためだけに、持ってきたのだ。
「大丈夫?潜らないと無理だけど…。」
シャラは頷くなり、息を止めて、リヨンの手元に潜っていった。
シャラが縄を切っているときに、リヨンはふと気づいた。
岸から大勢の人が見ている。
この刑の傍観者たちだ。ほとんどがカウン国の民だ。
その集団の先頭で、馬に乗ってこちらを見ている者がいる。
シャラに気づいたのだろう。真っ青な顔をしているのが、ここからでもよくわかる。
見慣れたその顔を見て、リヨンはため息をついた。
(リーガン…。)
裏切り者、と心の中で罵った。あれほど信頼していたのに、いとも簡単に裏切った、シャラの側近だ。
(シャラが、どれほどあなたを信頼していたか、あなたにはわからないでしょうね。どれだけ、愚かな男なの。)
そこまで罵ったとき、手が自由になったのがわかった。
シャラが縄を切り終わったのだ。
苦しそうに水面に浮かんできたシャラを、リヨンはきつく抱き締めた。
「ありがとう…本当にありがとう…。怖かったでしょう?寒かったでしょう?こんなに体が冷えきって…ごめんね…守ってやれなくて、本当にごめんね…。」
シャラの短刀を借りて、足の縄もさっと切ると、短刀を鞘に入れて、ささやいた。
「行くわよ。逃げましょう。」
だが、泳ぎはじめてすぐ、わずかな水の流れを感じて、リヨンは動きを止めた。
(まずい…)
ランギョがいる。
そっと波をたてないようにして、後ろに戻り始めた。
と、小さな水音が、背後で聞こえた。
リヨンは、真っ青な顔で周りを見渡した。
嫌な予感が当たった。二人の周りは、ランギョでいっぱいになっていたのだ。
リヨンは、そっとシャラを見た。
今、自分の身に何が起こっているのか、理解できないのだろう…怯えと不安が入り交じった顔をしている。
リヨンは唇を噛んだ。
『生きるか死ぬか。』
それは一番決断しがたいものだった。
ここで共に死んでもいい。この子の目の色は、行く先々で、この子を苦しめることになるだろう。
自分も、どこまで苦しんできたかわからない。
そんな苦しい人生をシャラには送ってほしくなかった。
そう考えると、二人でこのまま死んだ方が、まだ、ましなのかもしれない。
その反面、二人で生き延びて、共に幸せな人生を送りたいという気持ちもあった。
シャラは、まだ十歳。
そんな幼い歳で、母親を亡くすなど、耐えられないだろう。
だが、こんな深い傷を負った自分が、助かる望みなど、ほとんどないに等しかった…。
たとえ助かったとしても、自分は長くないだろう。
それでも、シャラの人生はまだ長い。
(たとえ、どんなことがあったとしても、シャラには、幸せになってほしい。なんとしてでも、生きのびてほしい…。)
一つだけ…たった一つだけ、シャラを助ける方法がある。
リヨンは、迷いに迷っていた。
『リヨン、いいか?よく聞け。この方法は、禁忌だ。決して人前で使ってはならないものだ。もし、これを使えば、死に値する大罪となるということを、忘れるな。』
自分が、そうやって厳しく教え込まれ、シャラにも、そうやって教え込んできた。
今、自分が考えていることを実行すれば、シャラが絶望するのは確実だ。
その術を使う=自分が死ぬ、ということなのだから。
リヨンは目をつぶって、心の中でアーシュに語りかけた。
(アーシュ…あなたならどうする?)
アーシュなら、どんな方法を使ってでも、シャラのことを助けるだろう。
たとえ、自分が死ぬとしても。
もう葛藤は、無くなっていた。
自分の手から、無意識に滑り落ちたのだろう。短刀を見つけ、鞘の中に収めてから、シャラの腰に差し込むと、早口でささやいた。
「シャラ。ここからは私の言うことを、必ず聞いてちょうだい。今から、特別なものを使って、あなたのことを助けてあげる。この国から逃がしてあげる。ここにいたら、あなたも殺されてしまう。でも、私が今からすることを、この先、絶対にしてはならないよ。私は、死を選ぶものとして、ふさわしいものを使うのだから。」
シャラは、母が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「それは、どういう…」
何かを言いかけたシャラを、手で止めると、リヨンは静かに、止め笛とは違う、銀色の笛を出して、口に当てた。
(『操りノ笛』…!)
それを見た瞬間、シャラは母の言葉の意味を、全て悟った。
「お、お母様!だめ!」
シャラの叫び声が聞こえたが、聞こえないふりをした。そして、深く息を吸い込むと、笛を力いっぱい吹き鳴らした。
ピィー…!
高々と、笛の音が池に響き渡った。間髪いれずに、さらに抑揚をつけて吹き鳴らした。
その瞬間、ランギョたちが一斉に動きを止めた、と思いきや一匹のランギョが、こちらにすうっと近づいてきた。
「えっ…」
「大丈夫よ。シャラ、ランギョの背に乗りなさい。…そう、上手よ。」
リヨンは、乗るときに抜け落ちた短刀を、腰に差し直してくれた。
やっとのことで乗ると、シャラは、母に向かって手を差し出した。
「お母様!捕まってください!」
だが、リヨンはその手を取らなかった。そのかわりにシャラの顔を見て、静かに微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
その目は、優しさと悲しみに満ちていた。
シャラは、はっとした。
『私が身代わりになるから、行きなさい。』
母は、そう言っているのだ。
自分はここで死ぬから、あなたは生きなさい、ということを。
シャラの目に涙が溢れた。
あまりにも突然すぎる別れ。まだ一緒にいたかった。
でも、それはもう、叶う願いではない。
母とは、ここで別れなのだ。もう、会うことはない。
今から母が自分を逃がしてくれる…恐らく自分は助かるだろう。
だが、母はここで一生を終えるのだ。
シャラは涙を流しながら、手を差し出したままだった。
リヨンは、シャラの手をそっと下ろした。そして、もう一度静かに微笑んだ。
「シャラ…あなたは幸せになれる。だから、生き延びて幸せになりなさい。」
そういうと、シャラが何かを言う間もなく、笛を吹いた。
笛が鳴った瞬間、ランギョは河に向かって、凄まじい速さで泳ぎ始めた。
何もできなかった。捕まっているのがやっとのスピードだった。
「お母様!お母様!」
焦って叫ぶと、背後から、母の声が聞こえた。
「振り返ってはだめよ!前を向いて捕まっていなさい!あなたは幸せになれる!生きて幸せになりなさい!」
それが、母の最後の言葉になった。
母がそう言った瞬間、後ろで水柱が上がる音が聞こえた。
見たくなかったが、見ずとも分かる。
母に、ランギョが襲いかかったのだ。
「嫌だ…お母様!お母様!」
必死で泣き叫んだけど、もう何も返ってこなかった。
そのままランギョは池から流れ出る河に乗って、カウン国から出ていった。
そのランギョを、シャラはおろか誰も止めることはできなかった。