そのなみだに、ふれさせて。
・善悪があるからこそこの世は回る
◆
思い返せば今も、脳裏で蘇るのは。
彼が強引に一文へ詰め込んだ、"家族"の名。
優しくて、幸せで、とてつもなく恋しくて。
……彼の名は入らないけれど、それでも。
正真正銘、家族だったと思う。
「麻生」
ぼんやりと。
水分を含んだ黒い雲が空を覆い尽くしていくのを眺めていれば、不意に背後から声をかけられる。
名字で呼ばれるのは、めずらしい。
だから高校に入って3ヶ月経つ今もそれになかなか慣れなくて。くるっと顔だけで振り返ると、返事の代わりに「会長」と呼んだ。
瀬戸内 雨音。
わたしが会長と呼ぶその人は、ここ、私立王宮学園で生徒会長をつとめる3年生だ。
「だいぶ曇ってきたな。
天気予報でも夕方から雨っつってたし、そろそろ降るだろ。ここにいたら濡れる」
「降りはじめたら、入りますよ」
最先端の設備を駆使し、創立当時から変わらないエリート進学校の名を、今もまだ貫いているこの学園。
その特殊さをマスコミが追い続けているせいで、少子高齢化が進むこのご時世でも倍率は衰退を知らずに増加し続けている。
そして。わたし、麻生 瑠璃がその学園の特進科1年生であるということは。
その上がり続ける倍率の中で、合格したという事実に他ならない。
……それが良かったことなのか、と。
問われればいまのわたしは、迷うことなく答えられる。たった一言で、何のためらいもなく。
「相変わらずお前は可愛げがねえな」
小さく零してため息をついた彼が、ベンチの空いた半分に腰を下ろす。
さらり、と。綺麗な黒髪が、視界で揺れた。