ドラマ
第1幕『Homecoming』
第1幕 //第1話
改札が見えてきた。
ところどころ塗装が剥がれた黒地に、くすんだブルーの二本線。
あの改札を最後に通ったのは、もう七年も前のことだ。差し込む陽光の眩しさが改札を抜けて、タイル張りの駅の床にキラキラと反射する。古臭くちっぽけだった駅は、俺の知らない間に大きく変わってしまったようだ。内装工事を終えた構内には、かつての薄汚れた床や壁はどこにも見当たらない。
それでも、この小さな馴染みの駅には、昔と同じようにゆったりとした時間が流れていた。
改札に切符を通して、外に出る。
駅から一歩踏み出して、見上げた真っ青な空には雲ひとつない。鳶が一羽、悠々と空を舞っているだけだ。
降り注ぐ陽の光の下で、じわり、と背中に汗が滲んだ。ふと辺りを見渡せば、通行人は皆涼しげな格好をしている。半袖短パンの子どもに、白が眩しい夏服の高校生。サラリーマンまでネクタイを取ったクールビズ。誰一人として、俺より厚着はしていない。どうやらこっちは、もう夏に入る季節のようだ。七年も経つと、人間というものは色々と忘れてしまうらしい。俺は上着を脱いで、大きめのリュックの中にしまい込んだ。
久しぶりに感じる街の雰囲気を確かめるように、俺はゆっくり足を運んだ。天気のいい、土曜日の昼下がり。
懐かしい時間の流れを楽しみながら、駅前の大通りを過ぎて商店街に出る。駅前の商店街は、相変わらず主婦やお年寄りで賑わっていた。大型スーパーにシェアを取られたと言われながらも、ここ、前原南商店街は何だかんだと人が集まる。駅に近いということもあり、平日夕方は学生や仕事帰りのサラリーマンの姿も多かった。
俺も高校の頃は、よく商店街の肉屋に立ち寄っていた。母親に頼まれた買い物のついでに、肉屋オリジナルのコロッケをひとつ。サクサクの衣とほっくりしたじゃがいもの味は、何度食べても飽きるものではない。おまけよ、と内緒話をするように囁いて、優しい肉屋の奥さんはよくメンチカツもサービスしてくれたっけ。店の奥で知らぬふりをしていた、強面の旦那さんは今も元気だろうか。
ふっと高校時代が懐かしくなって、馴染みの顔に会いたくなった。肉屋はもう一本奥の通りだが、今度時間がある時にでも寄ってみよう。もう一度、あのコロッケが食べたい。メンチカツ分の代金も、ちゃんと払える歳になった。
花屋、靴屋、時計屋に理容室。健康志向の奥様方がしきりに野菜を見比べている横を通り過ぎて、十字路の角を曲がる。曲がった先に続くのは、緩やかな坂道だ。そのまま坂を下ると、今度は右手に小さな郵便局が見えてくる。街に一つしかない、小さな郵便局だ。そこまで行けば商店街の賑わいは薄れ、道の先には打って変わって閑静な住宅街が広がっている。
「あら、もしかして玲央くん?玲央くんじゃない?」
不意に背後から呼び止められた。振り返ると、ピンク色のスカートにグレーのカーデガンを羽織った中年の女性。郵便局のドアの前に立ったその人は、俺の顔を見ると目を丸くした。
「やっぱり!玲央くんよね!」
すみません、えっと、誰。
俺の怪訝な表情に気が付いたのか、女性はあらあら、と恥ずかしそうに笑った。コンコン、と小刻みにヒールの音を響かせて俺に歩み寄る。
「もう忘れちゃったかしら。村上陽介の母です」
「––––ああ!陽介の!すみません、俺っ、」
「いいのよ、随分会っていなかったものね」
「いえ、すみません。お久しぶりです」
村上陽介、というのは高校の同級生の名前だ。高校2年の時からよく遊んだ仲で、陽介の家には何度かお邪魔したことがあった。言われてみれば、薄っすらとではあるが記憶に残っている顔だ。とにかく陽介の母親は上品で、いつも焼きたてのケーキの香りがする、そんなイメージ。
俺の目の前に立つ母親は変わらず上品に、眩し気に目を細めながら柔らかく笑った。
「でも、本当に久しぶりよねえ。最初は誰だか分からなかったわ」
「そう、ですね。こっち帰ってきたのが七年ぶりなんで……。村上さんは、どうして俺だって分かったんですか?」
この街を出たのは、言ったようにもう七年も前の話だ。成人した今の俺は、高校時代とは髪の色も雰囲気もすっかり変わっているはずなのに。いや、自分ではただ変わった筈だと、そう信じたいだけなんだが……。
「うーん。そうねえ、」
顎に手を当てて考えたのは一瞬、
「なんとなく、雰囲気が玲央くんかしらと思って」
––––––雰囲気変わってねーのかよ!
心の中の俺はガクっと肩を落とした。
「でも大分大人っぽくなっているものだから。驚いちゃった」
その言葉に、今度は小さくガッツポーズ。心の中の俺はいちいち忙しない。
少し意気を取り戻して、俺は尋ねた。
「陽介は、元気ですか」
「ええ、今は隣町で一人暮らししてるわよ。毎日上司に怒られてばっかりって言ってたけどね。帰省してくる度に、俺はめげない男になる!って宣言してるわ。本当に、諦めが悪いのか根性があるのか」
「めげない……はは、陽介らしーや」
真っ黒に日焼けした丸顔を思い浮かべて、俺はふっと笑った。めげない男になる、お前それ高校の時も言ってなかったか。告白して見事に振られた後、教室で宣言してたよな。
習性というか習慣というのか、人間の本質みたいなところはそんなに簡単には変わらないものらしい。ああ……陽介にも会いてぇな。底抜けに明るい、あいつの性格に元気付けられたのは二度や三度なんてものじゃない。
「そういえば、」
と陽介の母親は首を傾げた。
「玲央くんが引っ越して、もう何年になるのかしら」
「だいたい、七年です。高校卒業してすぐ引っ越したんで」
「まあ、もうそんなに経つのね。さっき七年ぶりって言っていたものね!お母様はお元気?」
「元気ですよ。ちょっと大きな仕事が終わったから会社仲間と旅行に行くっつって。きっと今頃、北海道で美味しいもん食ってるかと」
俺の母親は、今会社の慰安旅行とかで北海道の小樽に行っている。
「あら、北海道、いいわねえ。玲央くんもお仕事の方は順調?」
「あ、––––えっと、まあまあ、です」
「そう。それは良かったわ。玲央くんも頑張っているのね」
駅前の時計が、ボーン、と低い音で正午を告げた。静かな住宅地には、その低い音でさえ響きわたる。
「あら、もうこんな時間。それじゃあ、ゆっくりしていってね。時間があったら家にも遊びに来てちょーだい」
「あ、はい!ありがとうございます」
陽介の母親はにっこりと微笑み、じゃあね、と手を振って坂を上っていった。
ちょっとだけその後ろ姿を見送って、俺も再び歩き出す。
お仕事の方は、と聞かれて一瞬ヒヤリとしたが、俺が何をしているかまでは聞かないでくれて本当に助かった。そのあたり、さすが陽介の母親だ。
俺の仕事は、一般的な会社員のようなものではない。大抵の人には、ほんとに働いているの?ちゃんと稼ぎはあるの?と怪訝な顔をされることが多い仕事だ。確かに俺の仕事は不安定だし、世間一般で見ればだいぶ少数派な職だとは思う。だが、そこらのサラリーマンより稼ぎがあるとは言えなくても、それなりに一人ではやっていける。
ただ、世間一般、普通の人にそんな説明をするのは実際かなり面倒だった。
ところどころ塗装が剥がれた黒地に、くすんだブルーの二本線。
あの改札を最後に通ったのは、もう七年も前のことだ。差し込む陽光の眩しさが改札を抜けて、タイル張りの駅の床にキラキラと反射する。古臭くちっぽけだった駅は、俺の知らない間に大きく変わってしまったようだ。内装工事を終えた構内には、かつての薄汚れた床や壁はどこにも見当たらない。
それでも、この小さな馴染みの駅には、昔と同じようにゆったりとした時間が流れていた。
改札に切符を通して、外に出る。
駅から一歩踏み出して、見上げた真っ青な空には雲ひとつない。鳶が一羽、悠々と空を舞っているだけだ。
降り注ぐ陽の光の下で、じわり、と背中に汗が滲んだ。ふと辺りを見渡せば、通行人は皆涼しげな格好をしている。半袖短パンの子どもに、白が眩しい夏服の高校生。サラリーマンまでネクタイを取ったクールビズ。誰一人として、俺より厚着はしていない。どうやらこっちは、もう夏に入る季節のようだ。七年も経つと、人間というものは色々と忘れてしまうらしい。俺は上着を脱いで、大きめのリュックの中にしまい込んだ。
久しぶりに感じる街の雰囲気を確かめるように、俺はゆっくり足を運んだ。天気のいい、土曜日の昼下がり。
懐かしい時間の流れを楽しみながら、駅前の大通りを過ぎて商店街に出る。駅前の商店街は、相変わらず主婦やお年寄りで賑わっていた。大型スーパーにシェアを取られたと言われながらも、ここ、前原南商店街は何だかんだと人が集まる。駅に近いということもあり、平日夕方は学生や仕事帰りのサラリーマンの姿も多かった。
俺も高校の頃は、よく商店街の肉屋に立ち寄っていた。母親に頼まれた買い物のついでに、肉屋オリジナルのコロッケをひとつ。サクサクの衣とほっくりしたじゃがいもの味は、何度食べても飽きるものではない。おまけよ、と内緒話をするように囁いて、優しい肉屋の奥さんはよくメンチカツもサービスしてくれたっけ。店の奥で知らぬふりをしていた、強面の旦那さんは今も元気だろうか。
ふっと高校時代が懐かしくなって、馴染みの顔に会いたくなった。肉屋はもう一本奥の通りだが、今度時間がある時にでも寄ってみよう。もう一度、あのコロッケが食べたい。メンチカツ分の代金も、ちゃんと払える歳になった。
花屋、靴屋、時計屋に理容室。健康志向の奥様方がしきりに野菜を見比べている横を通り過ぎて、十字路の角を曲がる。曲がった先に続くのは、緩やかな坂道だ。そのまま坂を下ると、今度は右手に小さな郵便局が見えてくる。街に一つしかない、小さな郵便局だ。そこまで行けば商店街の賑わいは薄れ、道の先には打って変わって閑静な住宅街が広がっている。
「あら、もしかして玲央くん?玲央くんじゃない?」
不意に背後から呼び止められた。振り返ると、ピンク色のスカートにグレーのカーデガンを羽織った中年の女性。郵便局のドアの前に立ったその人は、俺の顔を見ると目を丸くした。
「やっぱり!玲央くんよね!」
すみません、えっと、誰。
俺の怪訝な表情に気が付いたのか、女性はあらあら、と恥ずかしそうに笑った。コンコン、と小刻みにヒールの音を響かせて俺に歩み寄る。
「もう忘れちゃったかしら。村上陽介の母です」
「––––ああ!陽介の!すみません、俺っ、」
「いいのよ、随分会っていなかったものね」
「いえ、すみません。お久しぶりです」
村上陽介、というのは高校の同級生の名前だ。高校2年の時からよく遊んだ仲で、陽介の家には何度かお邪魔したことがあった。言われてみれば、薄っすらとではあるが記憶に残っている顔だ。とにかく陽介の母親は上品で、いつも焼きたてのケーキの香りがする、そんなイメージ。
俺の目の前に立つ母親は変わらず上品に、眩し気に目を細めながら柔らかく笑った。
「でも、本当に久しぶりよねえ。最初は誰だか分からなかったわ」
「そう、ですね。こっち帰ってきたのが七年ぶりなんで……。村上さんは、どうして俺だって分かったんですか?」
この街を出たのは、言ったようにもう七年も前の話だ。成人した今の俺は、高校時代とは髪の色も雰囲気もすっかり変わっているはずなのに。いや、自分ではただ変わった筈だと、そう信じたいだけなんだが……。
「うーん。そうねえ、」
顎に手を当てて考えたのは一瞬、
「なんとなく、雰囲気が玲央くんかしらと思って」
––––––雰囲気変わってねーのかよ!
心の中の俺はガクっと肩を落とした。
「でも大分大人っぽくなっているものだから。驚いちゃった」
その言葉に、今度は小さくガッツポーズ。心の中の俺はいちいち忙しない。
少し意気を取り戻して、俺は尋ねた。
「陽介は、元気ですか」
「ええ、今は隣町で一人暮らししてるわよ。毎日上司に怒られてばっかりって言ってたけどね。帰省してくる度に、俺はめげない男になる!って宣言してるわ。本当に、諦めが悪いのか根性があるのか」
「めげない……はは、陽介らしーや」
真っ黒に日焼けした丸顔を思い浮かべて、俺はふっと笑った。めげない男になる、お前それ高校の時も言ってなかったか。告白して見事に振られた後、教室で宣言してたよな。
習性というか習慣というのか、人間の本質みたいなところはそんなに簡単には変わらないものらしい。ああ……陽介にも会いてぇな。底抜けに明るい、あいつの性格に元気付けられたのは二度や三度なんてものじゃない。
「そういえば、」
と陽介の母親は首を傾げた。
「玲央くんが引っ越して、もう何年になるのかしら」
「だいたい、七年です。高校卒業してすぐ引っ越したんで」
「まあ、もうそんなに経つのね。さっき七年ぶりって言っていたものね!お母様はお元気?」
「元気ですよ。ちょっと大きな仕事が終わったから会社仲間と旅行に行くっつって。きっと今頃、北海道で美味しいもん食ってるかと」
俺の母親は、今会社の慰安旅行とかで北海道の小樽に行っている。
「あら、北海道、いいわねえ。玲央くんもお仕事の方は順調?」
「あ、––––えっと、まあまあ、です」
「そう。それは良かったわ。玲央くんも頑張っているのね」
駅前の時計が、ボーン、と低い音で正午を告げた。静かな住宅地には、その低い音でさえ響きわたる。
「あら、もうこんな時間。それじゃあ、ゆっくりしていってね。時間があったら家にも遊びに来てちょーだい」
「あ、はい!ありがとうございます」
陽介の母親はにっこりと微笑み、じゃあね、と手を振って坂を上っていった。
ちょっとだけその後ろ姿を見送って、俺も再び歩き出す。
お仕事の方は、と聞かれて一瞬ヒヤリとしたが、俺が何をしているかまでは聞かないでくれて本当に助かった。そのあたり、さすが陽介の母親だ。
俺の仕事は、一般的な会社員のようなものではない。大抵の人には、ほんとに働いているの?ちゃんと稼ぎはあるの?と怪訝な顔をされることが多い仕事だ。確かに俺の仕事は不安定だし、世間一般で見ればだいぶ少数派な職だとは思う。だが、そこらのサラリーマンより稼ぎがあるとは言えなくても、それなりに一人ではやっていける。
ただ、世間一般、普通の人にそんな説明をするのは実際かなり面倒だった。