甘え上手でイジワルで

ミーティング!

 研究所の入口で、草壁くんに入館の手続きをして貰いながら、私はつらつらと彼を上から下まで眺める。秘書として養われた目は誤魔化されない。彼の身に着けるものは、上から下まで高級品だ。
 ウィングチップの靴はぴかぴかに磨いてある。
 彼は二十五歳と言った。C&Nは若い会社だ。CEOも私と同年代か、若かったくらいだと思う。
 キタガワはその逆。旧態依然とした経営陣は、このところの時代の急激な変化について行けなかった。キタガワがまだ存続しているのは、大きく膨れあがった組織の末端の社員達に力があったからだ。
 豊田秘書室長は、常日頃私達に言い聞かせてくれた。『人は石垣、人は城、人は堀』と。
『人を大事にするキタガワだから、これだけ会社も大きくなったんだ。なに、いつでも最初に戻ればいい。俺達の仕事は暮らしを豊かに、人を幸せにするんだ』
 そう言って、私達を守り、時に叱咤してくれた豊田室長が、私をここに送り出してくれた。
 そこで出会った草壁くん。
 よほど優秀なのだろうと思う。秘書室の仲間達も、私よりも優秀だった。
 ――負けたくないな。
 素直にそう思った。
 自分のできることを、自分らしく、丁寧に。
 私は深呼吸をした。本社とはまるで違う新しい職場だけど、私は私なんだ。

「……緊張してます?」
「平気よ。待たせてるのかな、早く行こう」

 手早く認証を済ませると、草壁くんを急かす。
 彼は苦笑しながらも、小走りになる私をミーティングルームへ誘導した。

 ミーティングルームが近づくにつれて、騒がしい声が聞こえてくる。

「先輩、AT室のメンバーは、今のところ三名です。あくまでも試験的な試みなので、ここの運用がうまく行くかは先輩の腕次第です」
「や、やけに脅かすじゃない」
「僕じゃ、まったく歯が立たなかったので、先輩のお手並み拝見というところです。きっと先輩ならうまくやれますよ」

 ますます騒がしい。
 しかも、子供の声が混じっている?
 草壁くんが開けたドアの向こうを見て、私はあんぐりと口を開けた。

「へ……」

 ミーティングルームにいたのは確かに三名……大人は、だ。
 私よりも年上だと思われる三人の女性が白衣を着て座っている。
 彼女達が研究員なのだ、ということはわかる。
 問題は、その他だ。
 会議室の机にのぼって鬼ごっこをしている男の子と女の子、床をはいはいする赤ちゃん、テレビゲームに熱中する鬼ごっこ組より年上と思われる男の子。

「え、えーと、草壁くん……?」
「あちらから、岩田研究員、川口研究員、海野研究員。それから、岩田研究員のお子さんである生後八ヶ月の愛奈ちゃん、川口研究員の双子のお子さんである鈴ちゃんと力丸くん、最後に、海野研究員のお子さん明良くんです」
「ま、待って待って!」

 立て板に水で説明されて、私は急いでタブレットを取り出す。お子さん達の名前まで急いでメモをした。

「ま、覚えなくてもいいですよ、先輩は僕の名前さえ覚えてくれたら……」

 照れたように言う草壁くんを椅子に座らせて、私も隣に座る。
 くるんと椅子を回して、白衣の三名に向き直った。

「打ち合わせを、始めましょう」

 笑顔が引きつったのは、しょうがないと思う!

 ワークシェアリング、と言えば聞こえはいい。日本人って、カタカナ言葉に弱いから。
 でもそれができているかっていうと――多分、全然できてない。
 簡単に打ち合わせをして、岩田・川口・海野研究員には仕事に戻って貰った。というか、簡単にしかやりようがなかったんだよね!
 残されたのは、乳児と、幼児二名と、小学生。みんなで準備されていた仕出し弁当を食べるだけで阿鼻叫喚。ミーティングルームは戦場と化した。

「草壁くん、あなたがお手上げって……まさか私にベビーシッターしろって言うんじゃないでしょうね」
「それこそまさかですよ。キタガワは総合職も研究職にも、他の企業と比べ女性社員の割合が高い。比べればってところですけど」

 昨今は結婚の時期も遅くなって、女性も会社で活躍している。私も端から見れば、婚期を逃しかけているように見えるだろうけど、仕事が楽しいのだからしょうがない。
 そしてパートナーを見つけて、今度はそこから先。

「産休、育休からの復帰の難しさ……」
「そこです。貴重な人材が会社に戻ってこない。AT室の一つ目のコンセプトは、自由な発想に基づいた革新的なソリューションによる研究開発を行うこと。それから、全国に先駆けた新しいワークシェアリングのモデルになる、というのがAT室の二つ目のコンセプトです。待機児童問題や男性の育休取得など社会問題も大きく関わってきます。小さなプロジェクトですが、大きな期待を担ってもいるんです」
「研究員三人に対し、私と草壁くん……」

 人員配置からすれば、草壁くんだけでも足りるはずだ。でも、わざわざ私をここに異動させた意図。
 話をすればするほど、部下であるはずの草壁くんが、逆に上司のように思えてくる。

「草壁くんだけでも、充分に成功させられるんじゃない?」
「僕には無理です。ベビーシッターだけなら僕でもできるけど、求められているのはそうじゃない。ベビーシッターや、保育施設や、医療機関、教育機関、家庭内で発生する諸業務を把握して、彼女達が安心して仕事に専念できるように、調整・交渉を行って欲しいんです。もちろん、彼女達の理解や、信頼関係も大事になってくる。お子さん達ともね。だから、難しい仕事なんです。あなたでなきゃできない」

 きっぱりと草壁くんは言う。

「買いかぶりすぎなんじゃないかしら。私は結婚してるわけでも、子供がいるわけでもない。もっと適任が……」

 草壁くんのふっくらとした唇が、きゅっと笑みの形になる。
 あ、こういうのとびっきりの笑顔って言うんだ。
 長い睫が縁取った目で真っ直ぐに見て、彼は告げた。

「あなたじゃなきゃだめなんです」

 どきんっと心臓が跳ねた。

「……そ、それは……どうも……」

 彼の手が、机の上に置かれた私の手の上に重ねられる。

「あ、あの、手……」
「あなたじゃなきゃ、ってわかって下さい」
「ち、ちか……」
「僕に必要なのは、あなただけなんです」
「ひ、ひゃっ……」

 車内での時よりも、もっと距離が近づく。またコロンの香り。
 声が裏返ったのも恥ずかしくて、引き抜こうとした手を、草壁くんがきゅっと握り直す。

「誰かの気持ちに寄り添って、誰かのために頑張れる、あなたみたいに美しいひとを、僕は知らない」
「ひっ……」

 頭から湯気が出るかと思った。
 なんなの!? なんなのこの人!?
 そんなに嬉しそうな、愛しくてたまらないみたいな顔で見る!? みないでよ!

「ちゅーするのか?」

 言語を失った私を救ったのは、唇を尖らした男の子の一言だった。
 背筋を仰け反らせた私を、はっしと草壁くんが抱き留めてくれたので、椅子から転げ落ちずに済んだ。

「え、えーと、君は、力丸くん?」

 すると、鈴ちゃんもやってきて、力丸くんの真似をして唇を尖らせる。

「たかっちゃん、おねえちゃんにちゅーするの?」

 机の下、温かいものが膝に触れた。はっとして覗き込むと、はいはいをしていた愛奈ちゃんが、私の膝を掴んで立っている。
 私は慌てて床に座り込んで、愛奈ちゃんの脇を支える。

「あっぶー! ぶっぶっぶっ!」

 ご機嫌でジャンプしながら唾を飛ばしてくる。うっ、顔にかかる……。

「おい、鈴、力丸、お前等うるさいんだよ」

 ゲーム機からついっと目線をあげて、すぐにゲーム機に目線を戻す。
 明良くんは小学校三年生なんだっけ。

「海野研究員はシングルなんです。それと現在、明良くんは学校をお休み中です」

 草壁くんも床に座り込む。
 鈴ちゃんと力丸くんは、机をくぐってきて、大人二人と子供三人で、机の下を隠れ家にするみたいな格好。

「病気?」

 草壁くんは首を振る。

「自分の意志です」

 いわゆる不登校って奴なのかな。明良くんを見遣ると、彼は聞こえてないふりをしてるけど、耳が赤い。
 鈴ちゃんと力丸くんは、じゃんけん遊びを始めた。

「たかっしー! 一緒にやろ!」
「たかっちゃんもやろーよー」

 草壁くんは子供が嫌いじゃないみたい。

「……よし、今日はみんなと仲良くなろう!」

 私はいそいそとジャケットを脱いで腕まくりをした。

 異動初日は子供達と研究所や工場を探検して終わった。
 もとから子供の相手は好きな方だ。縁があって、学生の頃は病院でボランティアとして子供と遊ぶこともしていた。
 私達は、結構仲良くなったと思う! 明良くんはまだだけど!

 とりあえず、今日はみんなで定時退社をして――業務時間も自由な形態なのだ――、草壁くんが予めまとめてくれていた三人の資料と、研究自体の資料を持って、私は草壁くんの車で新居に向かった。
 てっきりアパートだと思っていたら、新築の一戸建てだった。田舎の何もない土地に、工場を誘致したことで、徐々に住民が増えてきた土地なので、アパート自体の数がないのだと草壁くんは言う。
 かわいらしい白い壁の家の駐車場に車を止めて、草壁くんはスーツケースを下ろす。

「あ、もういいわよ、自分で運ぶし」
「中まで運びます」

 そういえば、ここから研究所まではどうやって行くんだろう。バスかな。

「ねえ、この辺ってバス通ってるの?」
「通ってませんから、どこかに用事がある時は、僕に言って下さい」
「え、そんなの悪いわ」

 玄関を開けると新築の匂いがした。玄関から二階に吹き抜けていて、天窓から夜空が見える。
 礼を言おうと思って振り返ると、草壁くんが玄関を閉めて、鍵を閉めていた。
 ……んっ? 何であなたが中にいるの?

「先輩は思ったとおり、素敵です」

 しかも靴を脱いで、私の背中を押す。いきおい私もパンプスを脱いで、中に上がる。
 草壁くんが腕を伸ばして、電気をつける。まるで、長い腕で囲い込まれるみたいになって――。

「あ、あの、草壁くん!?」
「僕と先輩のハウスシェアリングも、きっとうまく行きますよ」
「う、うん、ハウスシェア……え? えーっ!?」

 私は悲鳴をあげて、草壁くんは今日二度目のとびっきりの笑顔になった。
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