甘え上手でイジワルで
朝の光の中で
駒川 彩未。もうすぐ三十歳。
妹が一人。身長体重は平均並み。どちらかというと薄っぺらいボリュームにかける体型。顔は……十人並み。化粧映えするって言われたことはあって、秘書という仕事柄、かっちりしたメイクをすると、年相応に見えるらしいけど子供っぽさの抜けきれない顔だと自分では思う。
どちらかというとお堅い学級委員長タイプで、学生時代は勉強とバイトとボランティアに精を出し、就職してからは仕事と資格の勉強に追われていた。
何が言いたいかって言うと、私は自分がそう望んだわけじゃないけれど、異性との接点があまりなかったわけです。
でも、それが不満だと思ったこともあまりなくて、毎日は充実していて、好きなアイドルとかも特にいなくてですね。もう、異性自体に対する興味が、そもそも薄いのかなみたいな。
だから、目を開けて、間近に整った男の人の顔があった時、現実が受け止めきれなくてもしょうがない。
「……ふぇっ……?」
間の抜けたみたいなしゃっくりみたいな声をあげてしまう。
すると、朝日にきらきらした長い長い睫が震えて、彼は目を開く。
額には乱れた前髪が長くかかっている。前髪が続く芸術的なスリットから、濡れたように艶やかに光を宿した茶色い目が現れて、私を映す。
「……先輩」
彼は――草壁くんは、ふわぁ、と欠伸をして、身体を起こす。
私は、彼がまだエプロンをつけた、夕食の時と同じ格好をしていることに気づく。
「えっ、何……何で……え、えと……」
パニックになって、布団を剥いで起き上がろうと肘をついた。
「わっ!」
ついたはずの肘の感覚がない。私はバランスを崩して、草壁くんの胸に鼻から突っ込む。
「先輩、大丈夫ですか?」
きゅっと優しく抱きしめられて、草壁くんが私の耳元で囁く。
彼は壊れ物を扱うみたいにやさしく私を支えた。
痺れていた肘から先を見て、頬がかっと熱くなる。
草壁くんのシャツの端を、固く握った私の手。
「あ、あの、大丈夫、だから、あの」
慌てて手をはなそうとしてもうまくいかない。
草壁くんはすぐに私のやりたいことを読み取ったみたいで、手を添えてくれた。
指の一本一本のこわばりを緩めて、草壁くんは私の手を彼の大きな手の中に包み込む。
「……疲れてたんですね、先輩。僕が飲ませすぎました」
どうやら私は、ずいぶんな失態を部下の前でやらかしてしまったらしい。
頬は熱いままなのに、さぁっと寒気が背筋を走った。
「ご、ごめん、迷惑かけて」
草壁くんは、にっこりと笑って続けて言う。
「寝入ってしまった先輩を、部屋まで運んだのはよかったんですけど、僕の服を掴んではなしてくれなくて」
「……う」
「ベッドに下ろしたら、ひとりにしないでって、抱きついてきて」
「……うぅ……」
「僕をベッドに引きずり込んで……一晩中はなしてくれなくて」
「うそぉっ!」
嘘だと言って欲しいけど、じんじんし始めた肘から先の痛みが、彼の言っていることが本当だって訴えてくる。
「そんなの、全然覚えてない……」
「まあ、しょうがないですよね、でも」
草壁くんの笑顔が、うさんくさいものに変わる。
「僕は心づくしの料理と美味しいお酒で、先輩を歓迎したいだけだったのに、こんな風に一晩中抱き枕にされて……ひとが聞いたら何て思うかわか」
「わーっ! わーっ! 待って! 待って下さい! お願いだから、昨日のことは秘密にして! 黙っててお願いします!」
私は草壁くんに土下座せんばかりの勢いで頼んだ。
すると彼はうさんくさい笑顔のまま、握り込んだ私の手を口元に持っていく。
丁度左手、その薬指。
「……昨夜のことは」
彼の唇が、薬指の付け根に触れる。そのやわらかい感触は、私の胸に電気ショックみたいに伝わった。
「秘密にしますから、僕のことを好きになって下さい」
朝の光、ベッドの上、私の頭は許容範囲を超えて、再び枕に倒れ込んだ。
それから気まずいったらありゃしない!
いや、気まずいのは私だけみたいなんだけど……。
シャワーから出てきた草壁くんは、私が用意した朝食を見て、「ワオ」と言って手を伸ばす。
「こら、つまみ食いしないで、もっと髪の毛しっかり拭いて」
草壁くんは照れくさそうな顔で、大人しく頭をもしゃもしゃタオルで拭き始める。
ラフな格好だと、彼の体格の良さがスーツよりもリアルで、少し目のやり場に困ってしまう。
それもあって、何だか世話焼きおばさんみたいになってしまうのだけれど、彼はこんな私の態度に不快を不快に思わないんだろうか。
「……冷蔵庫の中のもの、勝手に使っちゃったけどいい?」
彼はにやにやして私がご飯をよそうのを見ている。
「……あの、食費とか、光熱費とかどうやって折半……ねえ、聞いてる?」
彼はタオルを椅子の背もたれにかける。相好を崩したまま、椅子に座った。
「あの、草壁くん」
「ハウスシェアリング、受け入れてくれたんですね?」
「え」
「……もっと、嫌がられるかと思ってたんです。男と一緒に暮らすなんて」
いや、文句言わさなかったの君だから!
「紳士であることを神に誓います」
「……草壁くんって、神様信じてるの?」
「いえ、特には」
がちゃんと茶碗を乱暴に置いてしまったのも仕方あるまい。
まったく、この部下にはペースを崩される。
「……お節介で、面倒見が良くって、絆されやすくて……変わってないなぁ」
「ん? 何か言った?」
「何も。この卵焼き、おいしそうですね」
はぐらかされたような気がするけど、とりあえず朝ご飯を食べることにした。
お味噌汁とだし巻き卵、ご飯と海苔と浅漬け。
昨日はごちそうを食べ過ぎたから、私にとってはこれでも重たすぎるくらいなんだけど、草壁くんはおいしいおいしいとご飯をおかわりしてくれた。
それでまたにやにやしてる。
なんだろ、いやらしいなあ。
「……何でずっと笑ってるの?」
お行儀だって悪いんだから、と言いたかったけど、彼の箸使いはきれいで、すっと姿勢を伸ばしてもぐもぐ食べているところは、弟がいたらこんな感じなんじゃないかって思うくらい。
それか、しつけのよくできた大きな犬。
「だって、新婚さんみたいじゃないですか」
「ご、ごほっ、ごほっ! な、何言って」
「先輩」
彼が手を伸ばして、私の頬を手の甲で撫でる。
「ついてますよ、ご飯」
それから私のほっぺたについていたと思わしき米粒を取って、ぱくっと自分の口に入れた。
私の手から箸が落ちる。
「あ、顔真っ赤」
「……あっ、あのねぇ! 過剰なスキンシップ禁止! 変な冗談禁止!」
「冗談じゃないですよ。……僕のこと、好きになって欲しいんです」
真摯な視線を受け止めかねて、私は赤くなった頬を手で隠す。
「……あぁ、もう、かわいいなあ、先輩」
知らないよ! もう!
この後、私達は朝食の後片付けをして、同居のために幾つかの取り決めをした。
確かに、アパートを探したり、ホテルに避難することもできたのに、私がそれをしなかったのは、草壁くんの言葉を信じ切れもしなかったけど、深く疑うこともできなかったからだ。
このハウスシェアリングは会社も承知のことと草壁くんに説得され、私は承諾した体を取った。
初めての土地で、新しい仕事が始まる。その不安に耐えられなかったかも知れない。その不安を、草壁くんの存在が和らげてくれるような――。
「お仕事も、頑張りましょうね、先輩」
「お仕事を! 頑張るの!」
さて彩未、本格始動だぞ!
妹が一人。身長体重は平均並み。どちらかというと薄っぺらいボリュームにかける体型。顔は……十人並み。化粧映えするって言われたことはあって、秘書という仕事柄、かっちりしたメイクをすると、年相応に見えるらしいけど子供っぽさの抜けきれない顔だと自分では思う。
どちらかというとお堅い学級委員長タイプで、学生時代は勉強とバイトとボランティアに精を出し、就職してからは仕事と資格の勉強に追われていた。
何が言いたいかって言うと、私は自分がそう望んだわけじゃないけれど、異性との接点があまりなかったわけです。
でも、それが不満だと思ったこともあまりなくて、毎日は充実していて、好きなアイドルとかも特にいなくてですね。もう、異性自体に対する興味が、そもそも薄いのかなみたいな。
だから、目を開けて、間近に整った男の人の顔があった時、現実が受け止めきれなくてもしょうがない。
「……ふぇっ……?」
間の抜けたみたいなしゃっくりみたいな声をあげてしまう。
すると、朝日にきらきらした長い長い睫が震えて、彼は目を開く。
額には乱れた前髪が長くかかっている。前髪が続く芸術的なスリットから、濡れたように艶やかに光を宿した茶色い目が現れて、私を映す。
「……先輩」
彼は――草壁くんは、ふわぁ、と欠伸をして、身体を起こす。
私は、彼がまだエプロンをつけた、夕食の時と同じ格好をしていることに気づく。
「えっ、何……何で……え、えと……」
パニックになって、布団を剥いで起き上がろうと肘をついた。
「わっ!」
ついたはずの肘の感覚がない。私はバランスを崩して、草壁くんの胸に鼻から突っ込む。
「先輩、大丈夫ですか?」
きゅっと優しく抱きしめられて、草壁くんが私の耳元で囁く。
彼は壊れ物を扱うみたいにやさしく私を支えた。
痺れていた肘から先を見て、頬がかっと熱くなる。
草壁くんのシャツの端を、固く握った私の手。
「あ、あの、大丈夫、だから、あの」
慌てて手をはなそうとしてもうまくいかない。
草壁くんはすぐに私のやりたいことを読み取ったみたいで、手を添えてくれた。
指の一本一本のこわばりを緩めて、草壁くんは私の手を彼の大きな手の中に包み込む。
「……疲れてたんですね、先輩。僕が飲ませすぎました」
どうやら私は、ずいぶんな失態を部下の前でやらかしてしまったらしい。
頬は熱いままなのに、さぁっと寒気が背筋を走った。
「ご、ごめん、迷惑かけて」
草壁くんは、にっこりと笑って続けて言う。
「寝入ってしまった先輩を、部屋まで運んだのはよかったんですけど、僕の服を掴んではなしてくれなくて」
「……う」
「ベッドに下ろしたら、ひとりにしないでって、抱きついてきて」
「……うぅ……」
「僕をベッドに引きずり込んで……一晩中はなしてくれなくて」
「うそぉっ!」
嘘だと言って欲しいけど、じんじんし始めた肘から先の痛みが、彼の言っていることが本当だって訴えてくる。
「そんなの、全然覚えてない……」
「まあ、しょうがないですよね、でも」
草壁くんの笑顔が、うさんくさいものに変わる。
「僕は心づくしの料理と美味しいお酒で、先輩を歓迎したいだけだったのに、こんな風に一晩中抱き枕にされて……ひとが聞いたら何て思うかわか」
「わーっ! わーっ! 待って! 待って下さい! お願いだから、昨日のことは秘密にして! 黙っててお願いします!」
私は草壁くんに土下座せんばかりの勢いで頼んだ。
すると彼はうさんくさい笑顔のまま、握り込んだ私の手を口元に持っていく。
丁度左手、その薬指。
「……昨夜のことは」
彼の唇が、薬指の付け根に触れる。そのやわらかい感触は、私の胸に電気ショックみたいに伝わった。
「秘密にしますから、僕のことを好きになって下さい」
朝の光、ベッドの上、私の頭は許容範囲を超えて、再び枕に倒れ込んだ。
それから気まずいったらありゃしない!
いや、気まずいのは私だけみたいなんだけど……。
シャワーから出てきた草壁くんは、私が用意した朝食を見て、「ワオ」と言って手を伸ばす。
「こら、つまみ食いしないで、もっと髪の毛しっかり拭いて」
草壁くんは照れくさそうな顔で、大人しく頭をもしゃもしゃタオルで拭き始める。
ラフな格好だと、彼の体格の良さがスーツよりもリアルで、少し目のやり場に困ってしまう。
それもあって、何だか世話焼きおばさんみたいになってしまうのだけれど、彼はこんな私の態度に不快を不快に思わないんだろうか。
「……冷蔵庫の中のもの、勝手に使っちゃったけどいい?」
彼はにやにやして私がご飯をよそうのを見ている。
「……あの、食費とか、光熱費とかどうやって折半……ねえ、聞いてる?」
彼はタオルを椅子の背もたれにかける。相好を崩したまま、椅子に座った。
「あの、草壁くん」
「ハウスシェアリング、受け入れてくれたんですね?」
「え」
「……もっと、嫌がられるかと思ってたんです。男と一緒に暮らすなんて」
いや、文句言わさなかったの君だから!
「紳士であることを神に誓います」
「……草壁くんって、神様信じてるの?」
「いえ、特には」
がちゃんと茶碗を乱暴に置いてしまったのも仕方あるまい。
まったく、この部下にはペースを崩される。
「……お節介で、面倒見が良くって、絆されやすくて……変わってないなぁ」
「ん? 何か言った?」
「何も。この卵焼き、おいしそうですね」
はぐらかされたような気がするけど、とりあえず朝ご飯を食べることにした。
お味噌汁とだし巻き卵、ご飯と海苔と浅漬け。
昨日はごちそうを食べ過ぎたから、私にとってはこれでも重たすぎるくらいなんだけど、草壁くんはおいしいおいしいとご飯をおかわりしてくれた。
それでまたにやにやしてる。
なんだろ、いやらしいなあ。
「……何でずっと笑ってるの?」
お行儀だって悪いんだから、と言いたかったけど、彼の箸使いはきれいで、すっと姿勢を伸ばしてもぐもぐ食べているところは、弟がいたらこんな感じなんじゃないかって思うくらい。
それか、しつけのよくできた大きな犬。
「だって、新婚さんみたいじゃないですか」
「ご、ごほっ、ごほっ! な、何言って」
「先輩」
彼が手を伸ばして、私の頬を手の甲で撫でる。
「ついてますよ、ご飯」
それから私のほっぺたについていたと思わしき米粒を取って、ぱくっと自分の口に入れた。
私の手から箸が落ちる。
「あ、顔真っ赤」
「……あっ、あのねぇ! 過剰なスキンシップ禁止! 変な冗談禁止!」
「冗談じゃないですよ。……僕のこと、好きになって欲しいんです」
真摯な視線を受け止めかねて、私は赤くなった頬を手で隠す。
「……あぁ、もう、かわいいなあ、先輩」
知らないよ! もう!
この後、私達は朝食の後片付けをして、同居のために幾つかの取り決めをした。
確かに、アパートを探したり、ホテルに避難することもできたのに、私がそれをしなかったのは、草壁くんの言葉を信じ切れもしなかったけど、深く疑うこともできなかったからだ。
このハウスシェアリングは会社も承知のことと草壁くんに説得され、私は承諾した体を取った。
初めての土地で、新しい仕事が始まる。その不安に耐えられなかったかも知れない。その不安を、草壁くんの存在が和らげてくれるような――。
「お仕事も、頑張りましょうね、先輩」
「お仕事を! 頑張るの!」
さて彩未、本格始動だぞ!