甘え上手でイジワルで
ワークとタスクのバランス
君はまだベビー
私の前には、岩田研究員と、彼女にだっこされた愛奈ちゃんが座っている。
草壁くんが私達の前にコーヒーを置くと、岩田研究員はそれをそっと愛奈ちゃんの手の届かないところに押しやった。
岩田研究員は育休をまだ残して、職場復帰した。
彼女は私より少しだけ年上だ。
両肩から背負っているベビーキャリアの中で、愛奈ちゃんは寝ている。
「どうして、育休途中で職場復帰を?」
私がきくのと、草壁くんが私の隣に座るのはほぼ同時だった。
「……愛奈を産んでから、ずっと家に籠もっていて……」
彼女の夫も、キタガワホールディングスの社員だ。夫は営業職。
「夫は愛奈をよく可愛がってくれるし、家事もやってくれます。でも、帰りは遅くて、平日はほぼ愛奈と私のふたりっきりなんです。なんか……それが息が詰まって。赤ちゃんだから当たり前だって思うんですけど、夜泣きがひどいときとか、もう愛奈を床に叩きつけたいくらいになって」
岩田研究員も夫も県外出身者だ。身近に子育てで頼られる人もおらず、岩田研究員は初めての子育てを、自分の力だけで乗り切らなければいけなかったらしい。
「産後うつ、って言うんですかね。最初に、母乳があまり出なくて、それが気が狂いそうに……。信じられません? 子供がいなかったらそうかもしれない。でも、母乳が出ない、愛奈が飲んでくれない。やっと飲ませたら愛奈が吐いたり……。もう産んで一ヶ月くらいは殆ど記憶もないんです。乳腺炎になって熱が出ても薬も飲めない。自分の身体はぼろぼろになっていくのに、おっぱいどうしようって、そればっかり」
お、おっぱいって……。直接的な言葉にどきっとして、草壁くんをちらりと見る。
彼は目を伏せて、手元のペンを揺らしていた。
「母乳が出るようになってからも、ちょっとしたことでイライラして、家の中にいたらもうどうしようもない。だから育休を返上して、愛奈を保育園に預けて働こうと思ったんです。それがいいって、保健師さんも勧めてくれて」
保健師、という言葉を私は紙に書き留めた。結婚もまだの私には、名前は聞いたことがあっても具体的にはよくわからない。それにしても、家の外なら会社でなくともいいはず。
「ママ友を見ると苦しくなるんです。みんな私よりもいい母親なんだって思うから」
困ったように笑う岩田研究員に、私は黙って頷くしかなかった。
「保育園の入園申し込みをしているんですけど、入園はまだ決定していないんです。保育園の話だと、来月くらいには入れるんじゃないかって」
保育園、という言葉も書き留める。保育園の入園基準? というものがあるのだろう。
岩田研究員の話を聞いていくと、私のタブレットにはどんどん書き込みが増えていく。母子手帳、予防接種、離乳食、乳幼児検診。これを全部調べないといけない。
母親は、これらの新しい課題をいきなり与えられるのか……。
ぽん、と肘を叩かれて、私ははっと隣を見る。
草壁くんが大きな身体を屈めて、下から見上げるように私の顔を窺っていた。
「眉間にしわ、寄っちゃってますよ」
「う・る・さ・い」
草壁くんはぷっと吹き出す。まったくこの笑い上戸!
私は改めて岩田研究員に尋ねる。
「……いま、一番大変なことってなんですか?」
聴きながらも、私は答えを予測する。彼女の濃いクマを見て、睡眠時間だろうかと思ったりする。
教育費の負担だろうか。帰ってこない夫への秘められた不満だろうか。 岩田研究員は、剣道の防具みたいになっているベビーキャリアーをぽんぽんと軽く叩いた。
「……孤独です」
岩田研究員はそう言ってから、キャリアーの中の愛奈ちゃんを覗き込んだ。
その顔には、愛奈ちゃんへの混じりけのない愛情が滲んでいた。
「孤独、ですか」
そう言った草壁くんは、甘い顔立ちに憂いを浮かべているように見える。
岩田研究員がいなくなったミーティングルームで、草壁くんと私は彼女の話を振り返っていた。
「子育てする母親の孤独……だよね」
孤独。
その言葉に思い出されるのは、母の――私のママの姿だった。
パパが死んでから、ママは女手一つで私と妹を育ててくれた。
パパがいなくなってからも、ママは私達の前で笑顔でいてくれた。
どうして、そんなにいつもにこにこしていられるのって、聞いたことがある。
その時、ママはこう言ったんだ。
『ママがいつもにこにこ笑顔でいられるのはね、彩未と雫が元気でいてくれるからだよ。それから、いろんな人が私達を助けてくれるからだよ』
私と妹が心身ともに健康に育つことを、繰り返しママは大切だと伝えてくれた。
実家の周りは、古い町並みが残っていて、住民も昔から変わっていない。
近所のおじさんおばさん達は、親戚みたいに私と妹によくしてくれた。よくよそのおうちで面倒も見てもらった。
ママは大変だったろうけど、ひとりではなかったのかも知れない。
「……子育てって、大変なんだね……」
はぁっとため息をついて、私は大きく伸びをした。
「……先輩のお母さまは、お父さまが亡くなられてから、ご苦労なさったでしょうね」
んっ!?
「く、草壁くん、なんで、パパ……じゃなくて、父のこと知ってるの!?」
「なんでって……昨日、先輩が自分で言ってたじゃないですか」
「昨日って……あっ、酔っ払って……」
私は机に突っ伏した。
お酒って恐ろしい。こんなプライベートのことを仕事仲間に言ってしまうだなんて……。
今まで、自分の口からわざわざ家庭の事情なんか話したことなかったのに。
「あの……それ、忘れてくれる?」
「いやです」
「……イジワルだ、草壁くん」
「そんなかわいい顔をする先輩の方が、よっぽどたちが悪いです」
たちって……。無駄にきりっとした感じで、かわいいとか言わないで欲しい。
私は熱くなった頬を手で隠して、指の隙間から草壁くんを見た。
草壁くんは今日のスーツも決まっている。
「ほらまた、そんなかわいいことして」
「……そういう冗談は、ほんとにやめて欲しい……あと、ほんとに忘れて欲しい……」
草壁くんは意外そうに目を大きくする。
私は頬の熱さを誤魔化すために早口になる。
「別に聞いて楽しい話でもないでしょ。それにもう昔のことだし」
草壁くんの手が伸びてきて、私の手を握った。
「……昔のことだからって、悲しみが癒えるものでもありません」
胸がちくんと痛んだ。草壁くんの手の温もりが伝わってくる。
「……同情されたくないし」
「しますけど、しません」
「……どっちよ、それ」
「先輩の喜びも悲しみも、ひっくるめて先輩ですから。全部僕に教えて欲しいんです」
掠れた甘い声で、懇願するみたいに言われて、私の頬の熱さが限界を突破する。
握られた手を引き抜こうとすると、あっさり草壁くんは私の手をはなしてくれた。
「……もぉっ! し、仕事! するんだからね!」
「はい」
「集中してね!」
またにこにこしている草壁くんはパソコンを立ち上げる。
秘書の仕事として、情報収集とまとめ、それから効率のよい資料作りはお手の物。
それから私達は、タブレットに書き留めた様々な育児に関する事柄についてまとめ、簡単なプレゼンテーション用の資料を作っておく。
会議に使うだけでなく、思考の過程を残しておくことは有用だ。そこから、導き出される岩田研究員のワークシェアのコンセプト。
「岩田研究員が仕事に求めているのは、報酬だけじゃないし、やりがいだけでもないんだね。社会とのつながりなんだ」
「そうなると、在宅でネットワークを活用してできるような仕事というだけでなく、ある程度の時間は出勤して貰った方がいいかもしれませんね」
草壁くんはどこか散漫になりがちな私の考えを、うまく誘導してまとめてくれる。彼がまとめてくれた考えを頼りに、私は更に議論を深めていく。
草壁くんと一緒に仕事するのは、すごく居心地がいいことに私は気づいた。
じっと草壁くんを見つめると、「あれ?」と草壁くんが首を傾げる。
「ひょっとして、僕のこと好きになってくれました?」
「ばっ! なっ! そっ、そんなの、な、ならないから!」
「えー、冷たいな。それにしても先輩、仕事めちゃ早ですね」
仕事仲間としては最高かもしれないけど、その笑顔の濫用は禁止なんだから!
草壁くんが私達の前にコーヒーを置くと、岩田研究員はそれをそっと愛奈ちゃんの手の届かないところに押しやった。
岩田研究員は育休をまだ残して、職場復帰した。
彼女は私より少しだけ年上だ。
両肩から背負っているベビーキャリアの中で、愛奈ちゃんは寝ている。
「どうして、育休途中で職場復帰を?」
私がきくのと、草壁くんが私の隣に座るのはほぼ同時だった。
「……愛奈を産んでから、ずっと家に籠もっていて……」
彼女の夫も、キタガワホールディングスの社員だ。夫は営業職。
「夫は愛奈をよく可愛がってくれるし、家事もやってくれます。でも、帰りは遅くて、平日はほぼ愛奈と私のふたりっきりなんです。なんか……それが息が詰まって。赤ちゃんだから当たり前だって思うんですけど、夜泣きがひどいときとか、もう愛奈を床に叩きつけたいくらいになって」
岩田研究員も夫も県外出身者だ。身近に子育てで頼られる人もおらず、岩田研究員は初めての子育てを、自分の力だけで乗り切らなければいけなかったらしい。
「産後うつ、って言うんですかね。最初に、母乳があまり出なくて、それが気が狂いそうに……。信じられません? 子供がいなかったらそうかもしれない。でも、母乳が出ない、愛奈が飲んでくれない。やっと飲ませたら愛奈が吐いたり……。もう産んで一ヶ月くらいは殆ど記憶もないんです。乳腺炎になって熱が出ても薬も飲めない。自分の身体はぼろぼろになっていくのに、おっぱいどうしようって、そればっかり」
お、おっぱいって……。直接的な言葉にどきっとして、草壁くんをちらりと見る。
彼は目を伏せて、手元のペンを揺らしていた。
「母乳が出るようになってからも、ちょっとしたことでイライラして、家の中にいたらもうどうしようもない。だから育休を返上して、愛奈を保育園に預けて働こうと思ったんです。それがいいって、保健師さんも勧めてくれて」
保健師、という言葉を私は紙に書き留めた。結婚もまだの私には、名前は聞いたことがあっても具体的にはよくわからない。それにしても、家の外なら会社でなくともいいはず。
「ママ友を見ると苦しくなるんです。みんな私よりもいい母親なんだって思うから」
困ったように笑う岩田研究員に、私は黙って頷くしかなかった。
「保育園の入園申し込みをしているんですけど、入園はまだ決定していないんです。保育園の話だと、来月くらいには入れるんじゃないかって」
保育園、という言葉も書き留める。保育園の入園基準? というものがあるのだろう。
岩田研究員の話を聞いていくと、私のタブレットにはどんどん書き込みが増えていく。母子手帳、予防接種、離乳食、乳幼児検診。これを全部調べないといけない。
母親は、これらの新しい課題をいきなり与えられるのか……。
ぽん、と肘を叩かれて、私ははっと隣を見る。
草壁くんが大きな身体を屈めて、下から見上げるように私の顔を窺っていた。
「眉間にしわ、寄っちゃってますよ」
「う・る・さ・い」
草壁くんはぷっと吹き出す。まったくこの笑い上戸!
私は改めて岩田研究員に尋ねる。
「……いま、一番大変なことってなんですか?」
聴きながらも、私は答えを予測する。彼女の濃いクマを見て、睡眠時間だろうかと思ったりする。
教育費の負担だろうか。帰ってこない夫への秘められた不満だろうか。 岩田研究員は、剣道の防具みたいになっているベビーキャリアーをぽんぽんと軽く叩いた。
「……孤独です」
岩田研究員はそう言ってから、キャリアーの中の愛奈ちゃんを覗き込んだ。
その顔には、愛奈ちゃんへの混じりけのない愛情が滲んでいた。
「孤独、ですか」
そう言った草壁くんは、甘い顔立ちに憂いを浮かべているように見える。
岩田研究員がいなくなったミーティングルームで、草壁くんと私は彼女の話を振り返っていた。
「子育てする母親の孤独……だよね」
孤独。
その言葉に思い出されるのは、母の――私のママの姿だった。
パパが死んでから、ママは女手一つで私と妹を育ててくれた。
パパがいなくなってからも、ママは私達の前で笑顔でいてくれた。
どうして、そんなにいつもにこにこしていられるのって、聞いたことがある。
その時、ママはこう言ったんだ。
『ママがいつもにこにこ笑顔でいられるのはね、彩未と雫が元気でいてくれるからだよ。それから、いろんな人が私達を助けてくれるからだよ』
私と妹が心身ともに健康に育つことを、繰り返しママは大切だと伝えてくれた。
実家の周りは、古い町並みが残っていて、住民も昔から変わっていない。
近所のおじさんおばさん達は、親戚みたいに私と妹によくしてくれた。よくよそのおうちで面倒も見てもらった。
ママは大変だったろうけど、ひとりではなかったのかも知れない。
「……子育てって、大変なんだね……」
はぁっとため息をついて、私は大きく伸びをした。
「……先輩のお母さまは、お父さまが亡くなられてから、ご苦労なさったでしょうね」
んっ!?
「く、草壁くん、なんで、パパ……じゃなくて、父のこと知ってるの!?」
「なんでって……昨日、先輩が自分で言ってたじゃないですか」
「昨日って……あっ、酔っ払って……」
私は机に突っ伏した。
お酒って恐ろしい。こんなプライベートのことを仕事仲間に言ってしまうだなんて……。
今まで、自分の口からわざわざ家庭の事情なんか話したことなかったのに。
「あの……それ、忘れてくれる?」
「いやです」
「……イジワルだ、草壁くん」
「そんなかわいい顔をする先輩の方が、よっぽどたちが悪いです」
たちって……。無駄にきりっとした感じで、かわいいとか言わないで欲しい。
私は熱くなった頬を手で隠して、指の隙間から草壁くんを見た。
草壁くんは今日のスーツも決まっている。
「ほらまた、そんなかわいいことして」
「……そういう冗談は、ほんとにやめて欲しい……あと、ほんとに忘れて欲しい……」
草壁くんは意外そうに目を大きくする。
私は頬の熱さを誤魔化すために早口になる。
「別に聞いて楽しい話でもないでしょ。それにもう昔のことだし」
草壁くんの手が伸びてきて、私の手を握った。
「……昔のことだからって、悲しみが癒えるものでもありません」
胸がちくんと痛んだ。草壁くんの手の温もりが伝わってくる。
「……同情されたくないし」
「しますけど、しません」
「……どっちよ、それ」
「先輩の喜びも悲しみも、ひっくるめて先輩ですから。全部僕に教えて欲しいんです」
掠れた甘い声で、懇願するみたいに言われて、私の頬の熱さが限界を突破する。
握られた手を引き抜こうとすると、あっさり草壁くんは私の手をはなしてくれた。
「……もぉっ! し、仕事! するんだからね!」
「はい」
「集中してね!」
またにこにこしている草壁くんはパソコンを立ち上げる。
秘書の仕事として、情報収集とまとめ、それから効率のよい資料作りはお手の物。
それから私達は、タブレットに書き留めた様々な育児に関する事柄についてまとめ、簡単なプレゼンテーション用の資料を作っておく。
会議に使うだけでなく、思考の過程を残しておくことは有用だ。そこから、導き出される岩田研究員のワークシェアのコンセプト。
「岩田研究員が仕事に求めているのは、報酬だけじゃないし、やりがいだけでもないんだね。社会とのつながりなんだ」
「そうなると、在宅でネットワークを活用してできるような仕事というだけでなく、ある程度の時間は出勤して貰った方がいいかもしれませんね」
草壁くんはどこか散漫になりがちな私の考えを、うまく誘導してまとめてくれる。彼がまとめてくれた考えを頼りに、私は更に議論を深めていく。
草壁くんと一緒に仕事するのは、すごく居心地がいいことに私は気づいた。
じっと草壁くんを見つめると、「あれ?」と草壁くんが首を傾げる。
「ひょっとして、僕のこと好きになってくれました?」
「ばっ! なっ! そっ、そんなの、な、ならないから!」
「えー、冷たいな。それにしても先輩、仕事めちゃ早ですね」
仕事仲間としては最高かもしれないけど、その笑顔の濫用は禁止なんだから!