強引ドクターの蜜恋処方箋
母はオーストラリアに出発の日は、見送りはいらないと言った。

照れくさいからと笑う母だったけど、多分それ以外の理由があるのだと感じた。

母は、私の前ではどんなに辛くても泣いた顔を見せたことがなかったから、しばらく会えない私には元気な笑顔の母だけを焼き付けたいと思ってるに違いない。

本当は見送りに行きたかったけれど、母の気持ちを最優先にすることにした。

母は、帰り際に私に言った。

「もし、これから先チナツが何かに迷った時は、より幸せだと思える方を選択しなさい。それは、きっとあなたをキセキに導いてくれるから」

「より幸せな方?」

「自分の心の声に耳を傾けるの。素直な気持ちに身を任せていればきっと何事もうまく向いていくわ」

母に上着を手渡しながらぼんやりと聞いていた。

「本当に自分が言いたい事、したい事。無理に封じ込めちゃうことって結構あるでしょ?チナツは」

母は私の肩に手を置いて笑った。

「それは、あなたに我慢ばっかりさせてきたお母さんのせいでもあるわね。ごめんなさい。でももうお母さんは大丈夫だから、チナツは自分の事だけを考えて。自分の幸せのことだけを」

「わかった」

私は母の目を見てしっかり頷いた。

母の私を心配する気持ちが痛いほど伝わってくる。

母自身がオーストリアに発つことが不安な以上に私が心細く感じていること。

ちゃんとわかってくれてるんだ。

「この言葉はお母さんからの置き土産。忘れないで。約束よ」

「うん。ずっと忘れないでいる」

「お母さんのこともね」

何言ってんの!って冗談っぽく返したかったのに、返せなかった。

ただ、寂しさと母への感謝が涙になって溢れそうなのを必死に堪えて、

「ありがとう」

と言った。

「チナツが私の子供で本当によかった。遠く離れてもあなたの幸せをずっと祈ってるから。そして、病気に必ず勝って、またここへ戻ってくるわ」

母は、穏やかに笑うと私の体をぎゅっと抱きしめた。

大好きな温かい母の香り。すーっと思いきり吸い込んだ。


3日後、母は水谷先生とオーストラリアへ発って行った。

出発の日は抜けるような青空が広がっていた。



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