一途な小説家の初恋独占契約
「それより、あの……汐璃ちゃんって呼んでいただくのは、ちょっと恥ずかしいかなと思うんですけど……あはは」

冗談めかして言ってみても、溜め息をつかれただけだった。

「別に構わないでしょ」
「あー……そうですか」

今日は、相当機嫌が悪いらしい。
また後日、機会を見つけて言ってみることにして、せっせと手を動かすことに集中する。

「うち以外の店にも行ったの? あいつと」
「ジョー先生とですか? はい、今日何軒か回らせていただきました。あ、こちらのお店と、直接商圏は被らないと思うので……」
「なんで汐璃ちゃんが行くのさ。この近辺だけが担当じゃないの?」
「いえ、今は結構受け持ちが広いんですよ」

今日行ったのは、自分の受け持ち店舗だけじゃないけど、それは黙っておくことにする。
今日の生駒さんは、様子が変だ。

「それより、生駒さん、何か打ち合わせしたいことがあったと聞いて来たんですが……」
「ああ……夏の文庫フェアについてね。でも、また今度でいいよ」
「……そうですか」

余計な口は叩かないことにして、ポスターを張り出し、単行本の山を築く。
ディスプレイ用の小物を置いて、何とか形になった。
後は、閉店後に書店の皆さんにやっていただくことになっている。

その頃には、ジョーもバックヤードから出てきた。
宮崎さんが他の店員さんも呼んで、一緒に店頭で写真も撮る。

帰ろうとするところで、宮崎さんが追ってきた。

「ジョー先生、色紙に『南北書店さんへ』と書いていただけませんか?」
「英語だったらいいけど」
「え、日本語はダメなんですか? そんなにお上手なのに?」
「僕が書くのは、英語専門」

冗談めかして言ううちに、サッとローマ字で書き上げてしまった。

喜ぶ宮崎さんには隠れて、私に向かってウィンクする。

私は思わず、ジョーのサインが書かれた本の入ったバッグを胸に抱き寄せた。

「また、抱き締めてる。早く僕も抱き締められたい……」

また冗談言って……。

そう窘めたかったのに、胸がいっぱいでうまく言葉が出てこなかった。

「じゃあ、これで失礼します。ありがとうございました」
「ありがとうございました。お気をつけて」

にこやかに店員さんたちが見送ってくれる中、生駒さんの硬い表情だけが浮いていた。

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