一途な小説家の初恋独占契約
「今日は、疲れたでしょ? 結局、取材じゃなくて、サインを書いてもらうばかりになっちゃって、ごめんね」
「いや、汐璃の仕事が見られて良かったよ。汐璃は……どうしてこの仕事を?」
「え?」
「僕は、汐璃が出版社に入ったというから、てっきり翻訳家になったものだと思ってた」
「翻訳家にはなりたかったけど……就職するまでに目処が立たなかったら、諦めると決めてたから」

私が大学に入ってから、会社員をしていた父が会社の業績不振で解雇されてしまい、お金を得ることの大変さを実感した私は、そう決めたのだ。
生計を立てる見込みもないのに、翻訳家一本で暮らしていくつもりはなかった。

4歳下の妹は、国公立大学に落ちて、今春から私立大学に通い始めた。
私も、高校、大学と私立に通わせてもらった身だ。
大学卒業後は、経済的に自立し、できれば実家に仕送りできるようになりたかった。

翻訳者を目指すために、大学は英文科を選んだし、父が解雇されるまでは専門学校にも通った。

それ以降も、アルバイトでは翻訳を続けていたものの、それだけで暮らしていけるようなお金は得られそうになかった。
今は、簡単な翻訳ならコンピュータでできてしまうし、インターネットで文書のやり取りができるから、在宅のパートタイムの翻訳家がたくさんいるそうなのだ。
いつになったら翻訳だけで稼げるようになるのか、先行きは見通せなかった。

アルバイトとして翻訳を続けながらも、一般の就職活動にも力を注いだ私は、幸いにも憧れの出版社で正社員の職を得ることができた。
一番の夢は叶わなかったけれど、私には夢のような仕事だ。

「汐璃は……この仕事が好き?」
「うん、好きだよ。編集部みたいに、作家さんに会ったり、新しい本を作ったりする仕事じゃないけど、その分、たくさんの本をたくさんの人に知ってもらうお手伝いが出来るの。
新刊だけじゃなくて、既刊の本でも、ちょっとした工夫で売上げが上がったりするんだよ。それって、もっと多くの人にその本が届いたってことなの。
すごいことだと思わない? 私たちが何もしなかったら、その本はその人と一生出会うことがなかったかもしれないんだよ。
そういう出会いの場を、本屋さんと一緒に作ってくの」

幸せな仕事だと思う。

学生の頃に抱いていた夢は、忘れなくてはならないけれど、こうして働くことのできる私は、過ぎるほど幸せなはずだ。

「……そうか。君が幸せに働いていることが分かって良かったよ」

言葉とは裏腹に、ジョーの笑顔はどこか寂しそうに映った。
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