王子様とハナコさんと鼓星


せめて、シャワーくらいは浴びたい。でも、待って。化粧落としって鞄の中にあったかな。

「ねぇ、村瀬さん」

「は、はい!」

突然呼ばれ声が裏返る。身体も大袈裟に跳ね上がると驚いた顔で私を見つめた後に微笑む。


「ははっ。もしかして緊張してるの?」


「緊張しないほうがおかしいですよ」

「そうなの?」

「社長は慣れているでしょうけど」

「慣れてないよ、初めてだけど。え、村瀬さんも初めてだよね?」

「いや、一応元カレはいましたから…って、え?」

「え?」

何かがおかしい。噛み合っていない気がする。


「えっと、盛り上がっているうちにやりたい事はこれだよ」


テーブルの上に1枚の用紙とペンが置かれた。


「婚姻届」と、書かれた茶色の書類。そこには既に社長の名前も住所も記入されていた。


その時、初めてとんでもない勘違いをしていた事がわかり頬が熱くなる。


そ、そういうことか!おかしいと思った!なんて勘違いをしてたんだろう。

敢えてなにも言わずにペンを取れば、私の態度で社長も何かを察したのか大きな笑い声が聞こえてきた。


「もしかして、俺が手を出すために連れてきたって思ってた?」

「き、聞かないで下さい」


お腹を抱え身体を震わせながら背もたれに寄り掛かり笑う。目元には僅かに涙が浮かんでいて、わざと咳払いをした。


「わ、笑いすぎですから。そこは紳士なら分からなかったフリをして下さい!」


「ごめん、ごめん!だっておかしくてさ。なんか意識しているなって思ってたけど、それは考えてもなかったよ。ははっ!」


「…う」

手を止め、横目で精一杯の抵抗のつもりで睨む。

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