王子様とハナコさんと鼓星
(なんで、この人が…)
顔を伏せ、ぐっと唇を噛み締める。逃げ出したいのに身体が動かない。
「華子?あれ、まさか俺の事覚えてないの?」
肩に置かれた手を離して私の正面に立つ。スーツのポケットに片手を入れ、少し屈みながら顔を覗く。
覚えてないわけがない。はっきりと覚えている。その記憶はたまに痛みとして蘇ってくる。
「覚えてるよ…聡くん」
「なんだ、驚かせるなよな。元カノに忘れられるなんて惨めだろ」
森山聡(もりやまさとし)19歳の頃に1年だけ付き合った元彼で初めての彼氏だった人。
なんで、こんな所で…
息苦しい呼吸や動揺を少しでも悟られないように、呼びたくない名前を呼ぶ。
「ご、ごめんね。驚いちゃって。あの、なんでこんなところに?」
「あぁ、1年前にこっちの本社に転勤になったんだよ。地方の営業成績が認められて、引き抜かれたって感じ。華子はなんでこっちに?働いてんの?」
「うん、そうなんだ…転職して…」
「ふぅ〜ん」
冷淡な返事。鼻に抜けるような息をして、地面を靴でトントンとつく。
変わらないこの人の癖。興味がない時と、何か嫌な事を考えているときの仕草。
冷たい空気と口の中の水分を飲み込み、彼から一歩下がる。距離があき、聡くんは顔を上げる。
目が合わないように、でも、合わせて見えているように彼がつけているブルーのネクタイを見た。
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