王子様とハナコさんと鼓星
「あ…」
(社長だ…)
スーツのポケットに手をいれ、何かを見ながらゆったりとした足取りで歩いている。針谷さんの姿は見当たらない。
どうしよう。声を掛けようか。そう脳裏を過るが足は強張っている。数秒だけ頭を悩ませ、心を決めて駆け寄った。
「お、はようございます!社長」
隣に並び、帽子を少しあげてから小さく頭を上下する。手に持っていたものから目を離し、私を見下ろすとその顔に笑みが浮かぶ。
「おはよう。初めてだね、村瀬さんから話しかけてくれたの」
「そうですか?でも、そうかもしれません」
足取りを止め、私も同じように立ち止まる。
確かにいつも社長の方からちょっかいを出して来るから、私からこうやって話しかけたのは初めてかもしれない。
(なんて、声を掛けたのはいいんだけど、何から話そう…)
背中を2人が押してくれたけど、聡くんの事でいっぱいいっぱいだった。社長の背中を見たからつい意を決して話しかけただけで、なにを言えば一番正しいのかは分からない。
「えっと、その…あ、そうだ。ホテルの部屋の事…なんですけど…スイート…って、あっ!」
私の話を聞かずに社長は毎回のごとく帽子を奪う。反射的に顔を上げそうになるが、赤くなった目元の事を思い出し足下を見る。
「ちょっ、いつも帽子を奪わないで下さい」
「目元が赤い」
身体を屈めて顔を覗かれる。その鋭い眼差しから逃げるように背を向けた。
「これは…き、昨日のドラマが感動して…恥ずかしいので見ないで下さい」
「…感動して?そっか」
前に回り込み、奪った帽子を丁寧に被せてくれる。フワッと香る柑橘系の爽やかな香り。聡くんとは全然違う。落ち着くいい香り。
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