彼の甘い包囲網

そう言うやいなや。

ガシッと千春さんが私の手を両手で掴んだ。

「もうっやだ！
抱き締めちゃいたい！
私もここに住もうかしら！」

「絶対反対だっ！」

ガチャッと荒々しくリビングの扉が開いて。

不機嫌丸出しの奏多が千春さんの手を私からほどいた。

「はあ？
何すんのよ、アンタ」

「うるさい、楓は俺のものだ。
触んな、離れろ、帰れ」


グッと肩を奏多の胸に押し付けられる。

ドクンドクンと鼓動が速まる。

頬が急速に熱を帯びる。


「どの口がそんなことを言うのかしら？
そういう台詞は肝心なことを言ってから言いなさいよ。
この勘違い男。
何で引越しするのか、それくらいは楓ちゃんに事前にきちんと説明しなさい！」

千春さんが奏多に噛みつく。

「それは……今から説明する……」

いつもと違って及び腰の奏多。

私はキョトンとして、奏多を見上げた。

「何で？」

奏多の腕の中から奏多に尋ねる。

「何で引越ししたの？」

「うっ……！
な、何でってそれは……」

じいっと生温い視線で千春さんが奏多を見る。

「お前に……お前の手伝いを……するから？」

「何で疑問形なの？
手伝い……？
あっ、もしかしてママに頼まれた？
え、私がレポートで悩んでること知ってたの？
それとも就活のこと？
うわぁ、最悪……あ、でもまだ先の話だから……。
奏多のご両親の会社に入社したいわけじゃないからね？」

「あ、いや、うん。
大丈夫、ちゃんと教えるから」


奏多の返答に私は少しホッとする。

これまでにも奏多には勉強を教えてもらったことがある。

奏多は教え方が上手だ。


「よかったぁ。
え、まさかそれだけの為に引越してきてくれたの？！
通いで大丈夫だったのに……何かごめん……お金もすごくかかったよね……」

奏多の自宅ってどの辺りだったんだろう。

そんなに離れていたのか……。

でも本当に申し訳ない。

何かお礼をした方がいいよね……でも奏多はお金持ちだからなぁ……欲しいものとかあるのかな……。


「奏多、私、どうしたらいい？
奏多に教えてもらう代わりに何でもするよ！」

私の言葉に奏多が瞠目する。

「は？
何でもって……」

「私ができることなら何でもだよ！
今すぐじゃなくていいから考えておいて」

「いや、あの……」

珍しく奏多が狼狽える。

「ねっ！」

奏多が何故か赤い顔をして困惑したように頷いた。


離れた場所で、千春さんも片手で口もとを覆って顔を赤くしていた。



奏多と私の隣人生活はこうして幕を開けた。