臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する
婚約前の顔見せに先立って、俺は実に十四年振りに燈子に会いに行った。
蓮井のおばさんの手前、なんとなく家を訪ねる事が憚られ、燈子の勤め先の役場に終業時間を狙って足を向けた。
十四年の時を経て、燈子はどのような変貌を遂げているのだろうか。否が応にも期待に胸は高鳴った。
俺は役場と通りを挟んだ向かい、姿を見れば駆け寄る事の出来る距離から、職員通用口を見つめていた。中から通用口が開くたび、食い入るように視線をやった。
そうして幾度目かに通用口が開いた時、ついに中から燈子が姿を現した。
!!
燈子は十四年の時を経ても、あまり変わっていなかった。落ち着いたベージュのスーツに身を包み、ストレートの黒髪を後ろでひとつに括った姿は一見では地味にも見えた。
けれど薄化粧を施しただけの肌は透き通るような白さで、整った目鼻立ちはとても気品がある。
当時の清楚な佇まいをそのままに、けれど落ち着いた大人の女性に、燈子は変貌を遂げていた。
「と、っ……」
「蓮ちゃん、聞いたわよ! 寿退職するんだって!?」
俺が声を掛けようとした瞬間、通用口から出てきた女性が、燈子の肩を叩いた。
「! 佳奈子さん、一体どこからそんな話……」
「あははははっ! やぁね、とっくに役場中が知ってるわよ!」
「っ、そんなぁ」
燈子より少しばかり年上であろうその女性は、燈子ととても打ち解けた、気安い様子だった。二人は並び立ち、そのまま駅の方向に向かって歩き出した。
……仕方ない。女性と別れた後に声を掛けるか。
声を掛けるタイミングを逸した俺は、適当な距離を空けて二人の後に続いた。
「お相手、社長さんなんだって?」
「……将来的には、そうなります」
「あらいいわね! 玉の輿じゃな……って、そうでもないか。蓮ちゃん自身、お嬢様だものね」
「いえ、先方はうちよりも大きな会社を経営していますから、玉の輿で間違いないです。両親の勧めはもちろんですけど、本当言うとお相手の家柄で決めた部分も大きいんです」
家柄で決めたというのは、僅かばかり意表を突く、意外な言葉だった。
「あははっ!! 蓮ちゃん、やるじゃない!」
「私ってほんと、打算的です」
「えー!? 蓮ちゃんが打算的!? ないないない!」
けれど、それを聞かされたからといって落胆するつもりなどなかった。そもそも気心の知れた女同士の会話に無作法にも聞き耳を立てているのは俺だ。それを不快に思うなどまるっきりのお門違いだ。
なにより女同士で熱が篭れば、本音とは僅かにズレた内容に話が独り歩きしてしまう事もあるだろう。
「佳奈子さん、私以前に一度だけ男性とデートした事があるんです」
!!
ところが続く燈子の言葉に、俺の胸中は穏やかじゃなかった。
燈子には、ずっと男の影など無いと、そんな確証にも似た思いがあった。
「まぁ、そりゃあたしらだっていい年だもん。デートくらい行くでしょ?」
世間一般で考えれば、同僚女性の台詞はもっとも。けれど俺にとって、燈子が他の男とデートをする現実というのは、決して受け入れられるものではなかった。
「だけど私には、大学生の時にした男性との食事、そのデートが最初で最後です。なんだか、怖くなっちゃったんです」
怖い、だと?
……まさかどこぞの節操ナシが嫌がる燈子に無体を強いようとしたんじゃないだろうな!?
食事だけと聞き、安堵にほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、もたらされた「怖い」という言葉にあらゆる想像が駆け巡る。
脳裏に過ぎる憎々しい想像に、ギリギリと拳を握り締めた。
「蓮ちゃん、それどういう意味?」
同僚女性も怪訝に首を傾げて問いかけた。
燈子は少し寂しそうに宙を仰いだ。
「男性に食事に誘われて、お受けしました。私はいつも家族で外食する時と同じような恰好をして、待ち合わせ場所に向かいました。男性は随分めかし込んだねって、そう笑っていました。途中で男性から和食でいいかと聞かれて、私は銀座かなって思ったんです。だけど男性は最寄りの駅ビルの中に歩いて行きました……」
「うわぁ……。蓮ちゃん、なんか悲しいけど、あたし続きが分かった気がする」
寂しそうに微笑んで、燈子は小さく頷いた。
「おかしいなって思いました。だって、私の知ってる外食は駅ビルじゃなかったから。駅ビルの中、定食チェーンのショーウィンドウの前で足を止めた男性に、銀座に行くんじゃなかったんですか? もし予約が取れなかったなら、お父さんに言ってみましょうか? って、私はそう言いました」
燈子の育ちならばそうだろう。蓮井のおじさんが家族を伴って通っていた寿司屋がたしか銀座だった。
「私には、嫌味なんかじゃなかったんです。うちは外食といったら銀座のお寿司か、恵比寿でフレンチだった。お父さんは事前の予約がなくても、割と席に通してもらえたので、当日になって思い立って行く事も多かった。ほんの親切心からの提案だったんです」
「あっちゃーー。お相手は、怒った?」
燈子は泣きそうに顔を歪めて、小さく首を横に振った。
「……いいえ、肩を落として一言だけ、自分には燈子さんは高根の花だったって、そう言いました。その人とはそれっきりです。私、申し訳なくて……。私自身、人を傷つけてしまった事がずっと苦しかった。それ以降、幾度か男性からお誘いをいただいたけど、全て断っています。不用意な私の言葉で誰かを傷つけるのは怖いし、何より私も傷つくのが怖い……。その点、今回のお相手は育った環境も近いので気が楽かなって思ったんです」
俺はどのような理由でも構わない。
理由はどうあれ、燈子が俺を伴侶に選んだ事に変わりはないのだから。
……しかし燈子は、少なからずその男を想っていたのだろうか。けれど男は、既に遠い過去の遺物だ!
真に燈子を想っていたのなら、越えてみせるべきハードルだった。それを怠った時点で、男に燈子を得る資格などない。
「なーにが打算的よ! そうじゃない、蓮ちゃんは心が素直なのよ!! あたしはそんな蓮ちゃんが大好きよ!」
同僚の女性は朗らかな笑みで、俯く燈子の背中を叩いた。
燈子は潤んだ目をして、同僚女性を見上げた。
「……佳奈子さん。私にそんなふうに言ってくれたのは佳奈子さんがはじめてです。佳奈子さんはいつだって優しく私の背中を押してくれて、私、もし佳奈子さんが男の人だったら本気で惚れ込んでいたと思います」
……俺にとってはむしろ、この言葉の方が聞き捨てならん。男であれ女であれ、燈子が心許す存在に苦い思いが湧き上がる。
燈子が心許せる存在は、俺でありたい。
……いいや、これからは俺が燈子が一番心を許せる存在になってやる!
「あれれ、そりゃ惜しい事したわ! ねぇ蓮ちゃん、幸せになんなさいよ!! あたしは蓮ちゃんが役場の皆に気を遣って、頑張ってるのを知ってる。縁故だなんて蓮ちゃんを扱き下ろす人もいたけど、蓮ちゃんの細やかな気遣いであたしは随分支えられたもんだわよ。蓮ちゃんがいなくなっちゃうのは大損失よ。それを押しての結婚だもの、幸せになんなきゃ駄目よ!」
「佳奈子さん、……退職後もまた会ってくれますか?」
「あったりまえじゃない!! なに言ってんのよ!」
……燈子は内向的で、友人も多くない。けれど燈子には上辺だけの付き合いじゃなく、余さず心を打ち明けられる友がいる。
「蓮ちゃん! この後ちょっとだけ付き合ってよ!? いいカフェがあるの。お祝いにケーキのひとつも驕らせて?」
「佳奈子さん、ぜひっ!」
燈子がこれまで築いてきた世界は社交的ではないけれど、それは決して寂しいとイコールではない。
……燈子の築く世界は堅実で、とても誠実なのだ。
俺は踵を返し、燈子と同僚女性に背を向けた。
わざわざ事前に会うまでもない。俺の伴侶は燈子以外、あり得ないのだから。
臆病な燈子は自分からは踏み出さない。けれど外堀から固められれば、逃げもしない。
燈子を手に入れるのに、手段はまるで問題だと思わなかった。
俺の腕の中、燈子を手に入れたなら、目一杯の愛情と優しさでもって包めばいい。夫婦の誓いがスタートライン。燃え上がる炎のような情愛でなくていい、日々の暮らしの中に穏やかな愛を紡ぎ、家族になっていけたらいい。
激情に怯える臆病な燈子は、穏やかな日常にこそ愛を見つけるだろう。
そんな俺の目論見はしかし顔合わせの席、予想外の衝撃でもって外れる事になった。他ならぬ燈子自身が、俺の予想を覆した。
ところが、燈子に破談を言い出された俺の胸には、衝撃と共に何故か歓喜が巡った。
これまでのように流されるばかりじゃない、震えながら一歩を踏み出し、決意と共に思いを告げる燈子の姿がこの上無く愛おしいと感じた。
それは破談を言い渡されて感じるにはどこか歪な感情。
けれど事実、すんなり手に入らなかった事で、燈子への想いは更にその温度を高くした。もっともっと、燈子が欲しくてたまらなくなった。
今まさに殻を破り、外の世界に羽ばたこうともがく燈子は魅力的で、万が一にも燈子を他の男に取られたくない。これまでと打って変わって、悠長に構える余裕など吹き飛んでいた。
一刻も早く、俺だけのものにしたい。羽ばたこうとする羽を掴み、俺の元に留め置きたい。
燈子に対する圧倒的な独占欲が湧き上がる。
衝動に突き動かされ、啄んだ燈子の唇は甘美だった。脳髄から蕩けるほどに甘く、狂おしく俺を急き立てる。
「燈子、少し落ち着いてから、……そうだな、日を改めてもう一度話し合おう。こちらから連絡する」
体の内から迸る激情に、精一杯の理性で蓋をして、燈子に告げた。
理性の鎧が崩れ落ちる前にと、放心して佇む燈子から逃げるように背を向けた。