臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する
コンッ、コンッ。
突然のノックに、ビクンと肩が揺れた。
「燈子? どなたかお招きしているの?」
「!! お、お母さんっ! お帰りなさいっ!!」
扉の向こう側から掛かる母の声に、思考が一気に現実へと引き戻される。
「実は恭介君が来てくれてるの! 絵を見てもらってて、すぐに下りるからリビングで待っていて!?」
弾かれたように恭介君と距離を取り、扉越しの母に向かって声を張った。
「あら、恭介君が来てくれてるの!? ちょうどケーキを買ってきてるから、用意して待ってるわ!! ……ねぇ、あなたー! 恭介君が来てくれてるんですって! ケーキと一緒に軽くおつまみも用意するから、ワインを開けましょうよ!?」
母は上機嫌に階下へと階段を下りながら、父に向かって嬉々として声を張る。
「おばさん、相変わらずだな」
苦笑と共に呟かれた恭介君の台詞に、私も苦笑して頷いた。
傾く西日が影を作っていたはずの窓の外は、すっかり夜の帳が落ちて暗くなっていた。
「燈子……」
恭介君の手が、そっと私の肩を抱き寄せた。
! 滲むくらい近くに恭介君の相貌が迫ったと思ったら、唇にチュッと小さく触れるだけのキスが落ちる。
「……燈子、行こうか」
「はい……」
離れた温もりを名残惜しく感じたのは秘密にして、私達は父母の待つ居間へと向かった。
私と恭介君に迷いはなかった。とても自然な流れで、私達はそのまま両親に結婚の意思を伝えた。同時に恭介君が役職を辞して、二人で渡米する意思も、包み隠さず伝えた。
「向うでは最初、無収入からのスタートになります。もちろんそれなりの貯蓄はありますが、一定額を初期投資にあてます。正直、役職付きで働いている今と同じ生活水準は難しいです」
恭介君は父に頭を下げた。
「俺の決断は実質、瀬名の家を継がない決断になります。今回の縁談は、少なからず後継ぎとしての俺を見込んでの縁談だったはずです。そういった意味では期待に添えず申し訳ありません。ですが俺は、燈子を諦めるつもりはありません」
「いいわね! 物凄くいいわね!! 若い二人が手に手をとっての海外生活!!」
母は輝く瞳で、諸手を挙げて喜んだ。弁護士でもある母は理知的でありながら、こんなふうに思い切りが良く豪胆なところがとても魅力的だ。
私はこれまでそんな母を尊敬しつつ、どこか気後れしていた。才覚に溢れる母に対して、委縮する自分がいた。
母でありながら雲上人でも見るように、眩しい思いで見ていた。
「お母さん、私、向うでも絵を描こうと思う。だけど描くだけじゃなくて、これからはコンクールとかにも参加するつもり」
「そう、いいと思うわ! それから燈子、私も英会話の勉強に付き合う! 外国人の顧客は全部お父さん任せにしてるけど、私も受け持とうかなって考えてたところなのよ!」
だけど今、不思議と母に気後れはなかった。
「じゃあお母さん、一緒に英会話の勉強をやろうか?」
「ええっ!」
盛り上がる母子のやり取りを、父は静かに聞いていた。そうして父が、ゆっくりと恭介君に視線を向けた。
「恭介君、社長夫人の椅子が必ずしも燈子の幸せを約束するものではないよ」
父の言葉は直接的に結婚に、是とも否とも答えるものじゃなかった。
けれど父はそれだけ言うと、静かに席を立った。そうして戻ってきた父の手には、ワインが握られていた。父は手持ちのコレクションの中、秘蔵の一本を躊躇いなく開けた。
父は普段、あまり多くを語る方じゃない。その父が、この日ばかりはとても饒舌だった。父が恭介君に語って聞かせる全てが、多分に親の贔屓目を含んだ私の自慢話。
恭介君は明らかに誇張された父の話を、真剣そのものの表情で聞いていた。
「お父さん、ワイン飲みすぎなんじゃない? それ、お父さんの身内贔屓もいいところ。恥ずかしいからやめようよ?」
私はそっと、父の腕を引く。
! すると満面の笑みをした父が、私の頭をぽふんと大きな手で撫でた。
「なにが誇張だ。燈子ほど優しい孝行娘はいないだろう」
年頃になってから、こんなふうにされた事はない。明らかに、お父さんは酔っぱらい。
「お父さんってば……」
だけど胸が、じんわりと温かいもので満たされた。恥ずかしいのに嬉しい、幸福な矛盾。
「お義父さん、どれだけ燈子が愛されて育ったかが手に取るように分かります。燈子の事、大切にします。俺は一生、燈子一人を大切にします」
けれど続く恭介君の言葉は、温かかった胸を燃えるように熱くさせる。歓喜が全身を巡る。
私の頭をぽんぽんとさせていた父が破顔して、恭介君の肩を強く叩いた。肩を思い切り叩かれて、恭介君が前に大きく傾ぐ。
「ははっ、恭介君、君の燈子への愛情を疑う余地はない。君達なら、間違いなく愛し愛される夫婦になるさ! 絶対に幸せな家庭になる!!」
父の言葉は応援じゃなく、何故か断言。そこに深い父の愛を見た気がした。
体勢を立て直した恭介君は、父に向かい、一度深く頭を下げた。父は笑みを深くして、今度は恭介君の肩をトントンっと優しく叩いた。母は潤んだ目でそれを見て、私の肩をきゅっと抱き寄せた。
「燈子、良かったわ。なんだかお母さんまで嬉しくなっちゃう」
「お母さんっ」
母の呟きに、私の目にも涙が滲んだ。そのまま母と、そっと抱き合った。
母も父も、恭介君も、全員が柔らかに笑んでいる。
我が家は慈しみに満たされて、幸福が溢れていた。