臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する






 その後、私と恭介君の結婚話はとんとん拍子に進んだ。私達は挙式をせず、恭介君の仕事の引継ぎ業務が済み次第、渡米する事を決めた。

 入籍は渡米の前日を予定していた。
 両家両親がその日、ささやかな祝賀の席を用意してくれる事になっていた。

 しかし渡米の準備を進めながら、恭介君の表情は冴えなかった。恭介君の心に影を落とすもの……。私は無理にそれを聞き出したいとは思わなかった。
 けれど恭介君に打ち明けられたなら、その時はどこまでも誠実に向き合おう。その心積もりは出来ていた。


 渡米を明後日に控え、私は画材の荷造りをしていた。
 もちろん画材の大部分は既に国際便で発送手配を済ませているけれど、進行形で仕上げている絵と愛用の画材の一部は手荷物で持ち込む予定だった。

「……啓介に押し付けようと思った訳じゃないんだ。だけどどこかで、将来は啓介が父の会社を継ぐだろうと、期待があったのは事実だ」

 私の荷造りを手伝いながら、恭介君がゆっくりと切り出した。
 私は荷造りの手を止めないまま、恭介君の言葉に静かに耳を傾ける。

 恭介君には十五歳年の離れた弟の啓介君がいる。
 啓介君は今、十三歳。

「啓介がバレエ留学したいと言い出した。俺も両親も、習い事の一貫と思って疑っていなかった。啓介から聞かされて、俺は目からうろこが落ちたよ。本気で啓介がバレエダンサーを目指そうとしているなんて、正直思ってもいなかった」

 瀬名のお宅とは家族ぐるみでお付き合いがあるけれど、年齢差もあって私自身啓介君と会ったのは数える程度だ。
 啓介君が生まれた時、恭介君は高校生にもなっていた。それまで恭介君はずっと一人っ子で、当たり前のように後継ぎとして育っていた。周囲の認識も、弟の啓介君が生まれようが、瀬名の後継者はあくまで長男の恭介君だった。

 瀬名のご両親も、十五も年が空いて、遅く出来た子だったのもあるのだろう。恭介君の時の英才教育とは打って変わって、啓介君には本人が興味を示すお稽古や習い事をさせ、のびのびと子育てをしていたようだった。
 そうして啓介君は、習い事で始めたバレエに熱中した。

「……詭弁だな。燈子、どうか今の言葉は忘れてくれ。家や会社の事は、俺なりに決着をつけているんだ。俺の決断で、会社の代表を他人の手に委ねる事になっても……それでも二足のわらじは履けない。それはもう納得して決めた事だ」

 瀬名のご両親にも、結婚と渡米の決断を告げた。結婚はともかく、渡米に関しては瀬名のご両親の反対も覚悟していた。

 けれど瀬名のおじ様は長い沈黙の後に重く頷いた。おば様もグッと堪えるような表情で、頷いた。
 それは一応の了承には違いない。けれど諸手を挙げての祝福でもない。
 
 しかし私達がした告白を思えば、二人はむしろ精一杯理性的に応えてくれたと言える。

「恭介君、私達が選ぶ道、進むべき道はもう決めています。それでも迷いや後悔はどうしても湧き上がる。だけど私は、それらの感情を無理に塞ごうとしないでいいと思うんです」

 迷いや後悔は、相手を想うゆえの、最たる感情。

 ……臆病なのは、私だけじゃない。

 人は誰しも己の胸の内、臆病な心を抱えてる。それは決して、自分可愛さばかりではないのだと、今の私は知っている。

 怖いのは、臆病になるのは、人の期待を裏切る事を恐れるから。

「恭介君、これはもしもの話です。私達にもいつか我が子を腕に抱く未来がきたとして、その時恭介君は空中投影ディスプレイの分野で大当たりして大会社の社長さんです。その子が大きくなった時、やりたい事があるから会社を継げないと言われて、恭介君はがっかりしますか?」
「いいや、絶対にしない。俺は我が子の未来を応援する」

 きっぱりと恭介君は言い切った。

「……はい。私も同じ考えです」

 聞かずとも、私には恭介君の答えが分かってた。そう答える恭介君だから、私は恭介君を望んだ。一生涯を共にしたいと望んだ。
 それでも実際に恭介君の言葉で聞かされれば、胸にじんわりと温かな想いが満ちる。
 共感と賛同を当たり前に共有できる事は、なんて居心地がいいんだろう。

「恭介君、私はおじ様とおば様もきっと同じだと思います。瀬名の家や会社よりも、恭介君自身の輝く未来を願ってくれる。そんな気がします」

 恭介君はハッとした様子で、私を見つめていた。私は向かい合う恭介君に一歩踏み出して、その背中にふんわりと両腕を回す。

「だってこんなにも素敵に恭介君を育て上げてくれたご両親です。だから怖がらなくて大丈夫です。恭介君が胸に温めてきた夢を、目指す構想を、一度腹を割ってしっかりと話してみたらどうですか?」

 ちょっとの勇気で回した腕に、キュッと力を篭めた。今日は私から、臆病に尻込みする恭介君を抱き締める。
 
「きっと二人は、共感と後押しをくれると思います」

 恭介君との結婚を私の両親に伝えて以降、私は毎晩、母と英会話を勉強してる。片言の英語でその日あった事、思った事、多くを話す。後ろから父が、流暢な英語で会話に割り込んでくる事も多い。
 私達親子の日常は、確実にその絆を深くしていた。それは今後暮らす場所を異にしても変わらない、深い心の絆だ。

 切欠は恭介君との結婚。けれど一歩を踏み出せば、いつだって手に出来ていたとも思うのだ。

「燈子……」

 恭介君は目を瞠り、積極的な私の態度に虚を突かれているようだった。
 臆病は、怖がりと同義じゃない。
 恭介君の臆病は、思いやりと紙一重。両親を悲しませはしないだろうか、落胆させてしまわないだろうか、そんな両親への気遣いに溢れてる。

「とは言え、言葉にしなければ伝わりません。ご両親に恭介君の心、余さず伝えてみませんか? というよりも伝えましょう!」

 クシャリと恭介君が、泣き笑いみたいに笑う。
 私も満面の笑顔で恭介君を見上げた。

「……燈子、やはり俺は君に敵う気がしない」

 絵筆を纏めていた私の手に、恭介君の手が重なる。乾いた音を立て、絵筆が机に散らばった。恭介君は指を絡め、力強く私の手を握り締めた。

「恭介君?」
「俺の家、一緒に行ってくれるんだろう?」
「! い、今からですか!?」
「こういうのは思い立ったが吉日って言うだろう?」

 !!
 恭介君は晴れやかな笑みを浮かべ、繋いだ私の手を引いた。私は慌てて、恭介君の後に続いた。
 直前まで描けるようにとは思ったけれど、まさか出発前日まで描くつもりはなかったのだが……。

 結局画材の荷造りは、まさかの出発前日へと持ち越しになった。





 そうして私はこの日、デジャブを見る事になった。

 我が家の居間で繰り広げられたあの光景が、今度は恭介君のお宅で再現されていた。

「恭介、燈子さん、私は若く希望に溢れた君達が羨ましくもある。家や会社の事は気にしなくていい。二人で、二人の未来を切り開きなさい」

 おじ様が、恭介君の肩を叩く。おば様は、おじ様の隣でにこやかに笑みを浮かべていた。

「ありがとう……」

 恭介君はおじ様のエールに、力強く頷いて応えた。私には恭介君が言葉の最後に、謝罪を呑み込んだように見えた。

「そうだ母さん、いいワインがあるだろう?」
「あら? それは明日、蓮井さんと祝賀のお席で開けるんじゃなかったの?」
「いいじゃないか、今飲みたいんだ。なぁ恭介?」

 長男が後継を辞退して渡米する。それはおじ様にとっては、必ずしも望ましいばかりじゃない。
 だけどおじ様は今、恭介君と肩を並べて上機嫌に笑っていた。
 家の事、会社の事、どれひとつだって蔑ろにしていいものじゃない。だけどおじ様は恭介君の門出に際し、笑顔で肩を押す。

「そうだね。……そういえば、父さんと飲むなんてあまりなかったね」
「ふふふっ。分かりました、持ってきますね」

 おば様も柔らかに微笑んで、ワインを取りに席を立つ。
 こうして父子は長い時間、静かに会話と杯を重ねた。そこには一欠けらのわだかまりだって見つける事は出来なかった。

 私とおば様はそんな二人を尻目に、並んでキッチンに立った。

「燈子さん、私ね、恭介のお嫁さんは燈子さん以外いないんじゃないかって、ずーっと思ってたのよ? 燈子さんが義娘になってくれて嬉しいわ」
「! おば……、お義母さん、不束者ですがよろしくお願いします!」
「やぁね、もちろんよ! 私、蓮井さんのお宅に伺う度、ずーっと燈子さんみたいな娘が欲しかったの!」

「ただーいまー」
「あら! 啓介、おかえりなさい!」

 居間の扉から、帰宅した啓介君が顔を覗かせた。啓介君は対面式のキッチンに私の姿を見つけると、人懐っこい笑みを向けた。

「あれ? 燈子さん、来てたの?」
「お久しぶりです啓介君。バレエ、頑張ってるんだって?」
「あー、兄さんから聞いたの?」

 啓介君は照れくさそうに、だけどバレエを語る啓介君の目には決意が篭っていた。それは恭介君の目に、とてもよく似ていた。

 帰宅した啓介君も加わって、お義母さんと私の手で完成させた夕食を囲んだ。夕食の席は終始、笑いが絶えなかった。
 明日の祝賀に先立って、前夜の宴は夜更けまで続いたーー。







「恭介君、やっぱりとっても素敵なご両親です」
「そうだな。俺の両親も、燈子の両親も……。だけど燈子、俺達も負けない夫婦になるさ。よろしく、奥さん?」
「恭介君……!!」

 私と恭介君は家族皆の心尽くしの祝福を胸に、二人新天地へ飛び立った。




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