臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する






 トン、トントン……。
 アパートメントの外階段を上る足音。

 私は描きかけの絵筆を置くと立ち上り、玄関に向かった。

「おかえりなさい恭介君」

 私は恭介君が鍵を差し込むよりも前に、内鍵を開けてドアを引いた。

「! 燈子、ただいま」

 内からドアが開いた事に、恭介君は一瞬驚いた表情をした。

「おかえりなさい」
「それにしたって燈子、訪問者を確かめもせずにドアを開るのは不用心じゃないか?」

 恭介君は困ったように眉を顰めながら、片腕でトントンっと私をハグした。

「ふふっ、間違いようなんてありませんよ。足音でちゃんと分かっているんですから」

 恭介君との新居である小さなアパートメントは、日本にいた時とは比べるべくもなく築年数が古くて狭い。 
 人が外階段を通る度、壁越しに足音が筒抜けだった。
 もう一年、私はここで帰宅する恭介君の足音を聞いている。階段を上る一歩目で、私は恭介君の足音と分かる。
 多少の不便はあれど、恭介君の帰宅をつぶさに知らせてくれるこのアパートメントが、私はすっかり気に入っていた。

「さぁ恭介君、夕食にしましょう? もう温めるだけになってますから」

  
 恭介君と二人、異国の地で二人三脚で始めた新婚生活は必ずしも順風満帆なばかりではなかった。
 恭介君は共同開発を進める仲間と夜通しの作業になる事も多く、一人の夜を寂しく思う日もあった。
 語学力に劣る私は、現地でのコミュニケーションに難儀する場面も多々あった。
 けれどどんな時も、いつだって恭介君が寄り添ってくれた。
 アルバイト先の同僚やお客様と会話が難しかった時、ご近所とのやり取りで難儀した時、伝えれば恭介君はケーススタディで一緒に復習をして、私の語彙力の底上げを図ってくれた。
 なかなか帰れない日も、作業の進捗状況と帰宅の目処は必ず連絡をくれていた。そうして二人のアパートメントに戻った時はいつだって、空白を埋めるくらい優しく濃密な時間を過ごしてきた。

「燈子、……まいったな」

 不思議なもので、そんなふうに一年も暮らしてみれば、いつの間にかここが私の居場所になっている。慣れないばかりだったファストフード店のアルバイトも、今ではお客様と簡単な世間話で笑い合えるまでになった。
 恭介君の帰りを待ちながら絵筆をとる時間もまた、かけがえのない大切な時間だ。

 恭介君はハグを解くとおもむろに背中から、私を抱き寄せていたのと反対の手を差し出した。

 !!

「ささやかだけど、受賞のお祝いに」
「恭介君っ……!!」

 差し出された恭介君の手には、小さなブーケが握られていた。

「燈子、おめでとう」
「ありがとう……! 凄く可愛い……」

 受け取ったのは、可愛らしいミニバラのブーケ。
 実は今日、私は応募していた絵画コンクールで受賞の報せを受けている。受賞の報せはすぐに電話で恭介君に伝えた。
 電話口の恭介君から祝福を貰い、胸に嬉しさがこみ上げた。
 だけど今、恭介君から目と目を合わせて直接告げられる「おめでとう」は、その温もりが段違いだった。じんわりと、胸が幸福に満たされる。

「本音を言えば、豪華な特大のバラの花束でもドンと差し出したいところだったんだけど、なにぶん今月は出費が嵩んで……ごめん」

 恭介君は苦笑しながら、ボソリと告げた。
 夫婦になり、私と恭介君は生活費の一切合切を共にしてる。だから私は恭介君が今月、開発環境を整えるのに大きな出費があったのを知っている。

「なに言ってるんですか。私はこのブーケがいいです。このブーケが、とても嬉しいです」
 
 私にとって、花束の大小はまるで問題じゃなかった。
 受賞を一緒に喜んでくれる。一緒に祝福してくれる。
 これ以上の幸福はない。

「それから燈子、実は俺の方も実用化への目処がもうじきつきそうなんだ。燈子には随分負担を掛けたけど、なんとか形が見えてきたんだ」

 !!
 はにかんだ笑みで、恭介君が囁いた。

「恭介君おめでとう!!」

 湧き上がる喜びに、じわりと目頭が熱を持つ。

「おいおい燈子、なんで泣くんだ。今日は燈子のお祝いだろう?」

 そうは言っても、恭介君の事は自分の事のように、いいや、自分の事以上に、嬉しいのだから仕方ない。
 滲む涙を隠すように、恭介君の胸にそっと頭を寄せた。

「恭介君の前祝も兼ねて、今日は二人分のお祝いだからいいんです」
「! なるほど」

 恭介君は温かな腕で、ぎゅっと私を抱き締めた。 
 私も恭介君を、抱き締めた。

「ねぇ恭介君、コンクールでの受賞はもちろん嬉しいです。だけど私は、恭介君とこうして一緒にいられる事、これ以上に嬉しい事なんてありません」

 愛しい旦那様の胸の中、幸せを噛みしめて囁いた。

「燈子、欲がないのは美徳だけど、それじゃあダメ亭主は図に乗るよ?」
「望むところです! どんな恭介君だって、大好きなんですから!」
 
 恭介君は目を見開いて、そうしてクシャリと微笑むと、そっと私の顎に手をそえた。

「俺の方が、もっと燈子が大好きだ」

 ふんわりと重なった唇に、心の奥、深いところがじんわりと熱くなる。
 想いの丈は比べる事が出来ないけれど、あますところなく私の想いを伝えたくて、唇を深く重ね合わせた。

 
 二人の新婚生活は慈しみと愛に溢れていた。




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