僕らのチェリー
彼は覚えていないかもしれない。
ぽつぽつと雨が降り始めたあの日の夕方、澪は市内の病院へと向かっていた。
ただひたすらに無事を祈りながら、自転車を必死に漕いだ。
病院に着く頃には雨音は強くなり、その音は澪の頭に不吉な予感を過ぎらせた。
受付の看護婦に病室の番号を聞き、階段を一気に駆け上がる。3階の廊下に出ると、奥の方から誰かの足音がした。
夕方にも関わらず電気は付いていない。辺りは薄暗く、その男の顔はよく見えなかった。
しかしゆっくりと近づいてくるうちに、次第に男の輪郭がはっきりとしてきた。
そして、彼だと気付いたのはすれ違う時で、よく見ると彼の服装に真っ赤な染みが所々についていた。
「ヨ、ヨネ。大丈夫?」
恐る恐ると声をかけてみたが、彼は無表情でちらっと澪を見ただけで、心ここにあらずという状態だった。
澪は戸惑った。
いつも教室で見る彼は常に、笑顔を絶やさなかった。
それが今、目の前にいる彼は笑ってもいなく泣いてもいない。
その代わりにひどく冷たい眼をしている。
初めて見る顔だった。
決して認めたくなかったが、澪は杏奈先生が助からなかったのだと悟った。