阪神淡路〜あの日、あの時〜
行方不明
陽射しも傾きかけてた頃、トラックで見ていたテレビニュースに被災地上空の映像がリアルタイムに写し出される。
そしてアップの映像・・・
あっ、俺のトラックが写ってる。
窓を開け手を振ってみる
、再び画面を見ると実況のアナウンサーが、
「あっ、トラックの運転手さんでしょうか?こちらに向かって手を振っているようです、大変な状況の神戸ですが、皆さん頑張っています」(よくわからないコメントだと思った:笑)。

後から知ったのだが、このテレビ映像、大変活躍したのだ。

実は、地元千葉のターミナルでは朝から私との連絡がつかず、運転手行方不明という状況になっていた。
(神戸は電話回線がまるで使えない状況にあり連絡のしようがなかった。当時あまり普及していなかった携帯電話を私は持っていたが、全く繋がらない状況だった)

ターミナルからは家族に連絡がいき、何かあったらすぐに連絡が入ることになっていたそうだ。

そして夕方にそのテレビをターミナルで運転手仲間が見ていて私を発見し無事を確認したとの事だった。

都合13時間神戸市内を走り、豊中インターから名神に乗ったのが翌日午前1時だった。
最初のパーキングからターミナルに電話を入れ無事を伝えると受話器の向こうから運転手仲間達の歓声が聞こえた。
正直悪夢を見た一日で、彼等の歓声を聞いたとき肩の力が一気に抜ける気持ちだった。
しかし、私の目に焼き付いた光景は後世語り継いで行こうと思った。

午前10時千葉のターミナルへ到着すると、そのまま帰宅。
丸二日緊張で起きていたので爆睡した。

翌日、ターミナルに行くと所長から呼ばれ、謝礼なるものを渡された。
一度は断ったが、最終的に受け取った。

そして・・・

所長「こんな状況で申し訳ないが、また救援物資で神戸へ向かってくれないか?」
私「いいでしょう、何回でも行きますよ」
(その後、3回行く)

神戸で見た光景は忘れてはならないし、忘れることはない。

そして、被災した友人も住居は半壊してしまったが家族全員無事だった。

以来、復興した神戸を仕事で訪れる度に思う。
あの時、亡くなったお子さんが生きていたなら何歳かな、そう思うといつも涙が溢れ出した・・・
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