嘘つきな君

願い


シンガポールの出張から、2週間が過ぎた。

あれから常務は仕事が立て続けに入り。

言葉通り、息つく間もない程忙しい日々を送っていた。


それでも今の私には、ありがたかった。

嫌な事を考えなくて済むから。


あの後、私達は何事も無かったかの様に振る舞っている。

今まで通り、何も無かったかの様に。

私がそうさせているのかもしれないけど――。





「芹沢」

「はいっ」

「この資料を至急、コピーして製本してくれ」

「かしこまりました」

「次の会議に行ってくる」

「資料は用意してデスクの上に置いてあります」

「分かった」


バタバタと事務所の中を闊歩して、彼は入れ代わり立ち代わり訪れる客人と難しい資料を見つめ合う。

そして、直ぐに次の会議へと向かってしまう。

交わされるのは、業務的な言葉だけ。

それが、近くにいるはずなのに、彼を遠くに感じさせる。

きっと、それは作り出された『神谷常務』しか見ていないから。

私の知っている『神谷大輔』は、セルフレームの眼鏡の奥にいる。

――ずっと、会っていない。


「会議後、そのまま直帰する」

「分かりました」


慌ただしく常務室を後にした彼。

残ったのは、微かに香るジャスミンの香りだけ。


「はぁ……」


1人になった途端零れる、大きな溜息。

本当は、今日だけはどうしても一緒にいたかったけど、そんな我儘言える雰囲気じゃなかった。

彼が忙しい事を一番分かっているのは、秘書の私だから。


「いつ渡そうかなぁ」


ポツリと出る独り言。

頭の中に浮かぶのは、ずっとバックの中に入っている、綺麗に包装された小箱。


――そう。

今日は常務の誕生日なんだ。



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