こんな恋のはじまりがあってもいい
しばらくは、あの教室へは行かなかった。
行けなかった。

二人ともどうしてるかな、と思う事もあるけど
流石に調子が良すぎるだろう。
何事も無かったかのように振る舞うのは、もう無理だと悟った。

だけどーーー
「……ヤベ」

学期末もそろそろだというある日の昼休み。
俺は英語のワークを丸ごと家に忘れて来ていることに気がついた。

この後必要なものだ。
今忘れると、大いに成績に響く。
提出までは無いが、かならず順番に当てられるので
手元にワークが無いと困るのだ。

隣のヤツに見せてもらおうか、と思ったが
今日に限って休んでやがる。

「クソ……」

ミキと別れてから、何もやる気が起きず
テストの成績もガタ落ちだった。
最近じゃ授業も上の空で受けていたので
さぞ印象も悪かろう。

そして今日の忘れ物ときたもんだ。
「…………」
さすがにやばい。
こうなったら。



俺は意を決して、教室を出た。


が、やはり気分の良いものでは無く。
さすがに以前のように皆の前で堂々と呼び出す訳にもいかない。
どうせなら開き直って
そんなキャラで行ってやろうか、と悩んでいると

「じゃ私、先生のところ行ってくるね」
聞き慣れた声が耳に届いた。

「おい、市原」
反射的に声をかけてしまった。
「へっ」

なんとも間抜けな声で、目の前の彼女は振り返る。
相変わらずだな。
少し、気分が楽になった。

ミキに対して、申し訳ない気持ちはある。
だけど、それは俺の勝手なわがままからそうなったワケで
市原自身には全く関係のない話だ。

だから

「よー、元気?」
コイツとは今までどおり、話がしたい。

「??……元気だよ??」
彼女はキョトンとして、なぜ声をかけられたのかも分からないようなそぶりだった。
きっと、ミキから話は聞いているはずだ。

下手したら軽蔑されるんじゃないか。
見向きもされないのでは、ミキの件で何か言われるんじゃないかと
俺は内心ひどく怯えていた。

けれど、彼女は次の俺の言葉を待っているようだ。
ちゃんと話を聞く姿勢になってくれている。
それだけでかなり、ホッとした。

「ミキ、元気してる?」
まず聞かなければならないことを、口にする。
本当に聞きたいのはそんな話じゃないのだけれど。

市原は分かりやすく首を縦にふる。
「うん、元気だよ」
それがどうしたの、と言わんばかりの
ごく普通の反応だった。

「そうか、なら良かった」
「……」

ミキがあれからどうしているのか、気にしてやれる立場じゃないのは重々承知だ。
それでも、まずはそこからだと思っている。
そして、ここからいつも通りーーーと、話そうとして。

あれ
俺、いつもどんな風に話してたっけ?

忘れるはずのない、彼女とのやり取りの方法を
すっかり思い出せなくなっていた。

たった数日なのに。
ほんの、数日なのに。

いつもの調子、ってなんだっけ?

だけどーーーそれでも
今、このチャンスを逃したくない。

話が続かない様子を見て、彼女も何か違和感を覚えたようで
「じゃ、私そろそろ行くね」
と話を切り上げようとした。

待って
待ってくれ

「ところでさ、市原」

必死の思いで引き止めた。
今までのように軽く話したいのに
なんでこんなに緊張するのか。

「?」

一度こちらに背を向けた彼女が、首を傾げて振り返る。
もう、これしかない

両手を合わせて彼女に拝む。
「ーー英語のワーク貸して」
「はあ?」
訝しげな声が聞こえてきた。
やっぱ、怒ってる……よな?

それでも
俺にはもうこれしかなくて。

「ちょー今回俺マジピンチでさ」
いつもどおり。
いつもどおり。

頼むから、ここだけは守らせてくれ。

今まで居心地の良い居場所だった、この時間を
この立ち位置を
思い出したい。

「ああ、いいよ。今先生に呼ばれてるから後でいい?」
「えーそれ待ってたら昼休み終わっちゃうじゃん」
「…もしかして次の授業で必要ってこと?」
「そう」

確か、こんな感じだったと思う。
頭の片隅で彼女のとの距離を思い出しながら
気持ちは少しだけ、遠慮がちに。
(どうか、ミキに見られませんように)

自分でも何てひどいやつだと思う。
反省は、してる。
だからこそ
次は後悔しないように。

はあ、と不機嫌なため息を大げさに吐いて
市原は教室へ戻ると無言でワークを持って来てくれた。
「サンキュー、後で返すわ」

いつもならそのまま引き返すのだけど
少しだけ
ぽんぽん、と頭に触れてから離れる。

後悔だけは、もうしたくない。
俺はまだ痛む胸の奥を噛み締めながら、教室へと足を向けた。
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