ワンだふる・ワールド ~飼育系女子の憂鬱な1週間
「何で、そんなこと訊くの?」
「だって、今朝、
あんた、泣いてたじゃない?
何かあったのかなぁ?って思って」
千津子は勘違いはしてなかった。
や、会ってからの私の表情とかで今朝とリンクさせたのかもしれない。
さすが、母親だ。
男である父の目はごまかせても、同じ女の目は見逃しはしない。
「ん~と、まぁ、
特に何もないんだけどね。
な~んか、疲れちゃったなぁって」
「ひょっとして、恋の悩み?」
大した荷物でもなかったのに買い物に連れ出したのは、母の気遣いだったのだろう。
恋の悩みを病室でしようものなら、それこそお父さんの病状が悪化するかもしれない。
「うん、ちょっとね。
いろんなことがことがあって、
今付き合ってる人と
別れるかもしれない」
「そっか。
まぁ、あんたの人生だから、
好きにしなさい。
辛ければ別れればいいし、
幸せなら付き合ってけばいい」
母の千津子は、私がもう大人なんだと言いたいのだろう。そして、こうも思っているはずだ。
大人の私が決断したことなら黙って見守っていく、と。
しばらく二人は黙って、海を眺めていた。
ふと沙希の頭に陽子の言葉が過ぎった。
「ねぇ、
恋は見返りを期待するもの
愛は見返りを期待しないもの
っていうじゃない?
お母さんはどう思う?」
「さあねぇ、
愛はこうとか恋はこうとか
考えたことなかったからねぇ。
わからない…なぁ」
千津子は足をブラブラさせながら、何とか答えようと絞り出すように言う。
「あ、でもねぇ
お父さんが初めて食事に誘ってくれた時ね。
こう言ってくれたのよ。
『僕はこれからいろんなことを
君にしてあげたい』
ってね。
その言葉はうれしかったなぁ。
好きだとか愛してるって言われるよりも
なんか、その方が心に響いたって感じね」
――見返りじゃなく?
――何かをしてあげたい
眼前の太平洋のように、沙希の心が晴れ晴れとしていく。
わからなかったことが、おぼろげにも見えた気がした。
何かを返してほしいんじゃなくて、何かをしてあげたい。
シェパードのお母さんも新川恵美も耐えたのではなく、
愛した男にしてあげた。
自分を犠牲にしてまでも、耐えてあげたのだ。
その想いは、実らないかもしれない。
が、してあげたのだ。
ともすれば、子猫もそうなのかもしれない。
シェパードのことを想って、してあげたのだ。
「みんな出会ったときは
そうなんじゃない?
忘れちゃうだけで…」
千津子が付け加える。
母の言う通りだ。
私は忘れていたんだ。
ハチと出会ったあの日のことを。
そして今日まで彼がしてくれていたことを。
でも、もうハチは戻らない。
今更ながら、気づいたところでもう遅いのだ。
涙が溢れそうになるのを必死にこらえる。
変なこと言った?と心配する母に、風が強いだけよと強がりを言ってごまかした。
と不意に、千津子は砂を払いながら立ち上がった。
「あんたが悩んでることの答えさんが
後ろにいるみたいだから、
私は先に帰ってるね」
と笑う。
振り返ると、そこに立っていたのはハチだった。