うさみみ短編集
そして、とうとうやって来たのだ。自分が羽化をする時なのだ。だから、毎日蝉を見つめて蝉を描き、蝉を知ろうとした。




皆の俯き帰っていく様子に寂しそうな手で見送りながらも、その度に銀色の折り紙に近づける自分に笑みを零したくて仕方が無かった。




あいつらは、まだ土の中なのだ。




お前らはまだ土の中に居る存在でしか無いのだ。



だが、自分は羽化をするのだ。



この硬い殻を破ってあの大きな雲と眩い光に向かって羽を震わせて鳴く、あの美しい姿の自分と土の中のそれとは違うのだ。





だからあの時、あの時に…あの精一杯の鳴き声。




皆が手を叩き合わせるあの鳴き声の中で、自分は奴らの全てを見下しながら目を閉じてその鳴き声を聴き、背を反らせて胸を張ったではないか。






そう、あの時に…自分はもう、あいつらと違う綺麗な羽を持つ蝉になったと感じたのだ…。







うっすらと目を覚ますと、あの拍手が消えていた。




あの眩い差し込む光すら消えていた。











小さな何の明かりすら灯さない電灯と、硬い布団の周りにある黒い押し付けられそうな圧迫感で目を開ける。





ふと上半身を起こすと、その黒いものは自分の枕元に転がり落ちてきた。




それは耐熱加工の黒いビニール袋。




何個も膨れ上がった黒いそのビニール袋が自分の周りを埋め尽くすように、自分すら飲み込むように幾つも存在している。





食べかけ少し汁ののこったカップラーメンの屑に群がる数匹の蝿共を払うが、白い壁には背中をテラテラと不気味に輝かせるゴキブリが、その黒いビニール袋からの生臭い匂いを狙うかのように蠢いている。






黒いカーテンで外の明かりさえ遮る様に締め切った窓を見つめる。





時間は知らない。




もう今日が何月で季節が何で何曜日なのかも、全く知らない。





ただ、すっと下の階段に続く自分の部屋のドアを薄っすらと開けると、小さなメモ書きが残っている。





「頑張らなくても良いからね。今の自分は恥ずかしい事じゃないの…




 でも、気が向いたら…お外の空気でも吸ってみたら?」





見覚えのなる右上がりな、この文字の形は間違いなく母の物だろう。




うっすらと何度も文章を選んで消した跡が見える。



そのメモを丸めるように握りつぶすと、再び戸を閉めて自分の部屋へと戻る。




ブーン。とカップラーメンの屑に群がる蝿の飛ぶ耳障りな音を聴きながら、銀色のノートパソコンを開けた。




真っ暗な世界の中で、このノートパソコンだけの青白い光が僅かに灯る。




それが自分の顔にも灯ってノートパソコンの画面に自分の顔が映し出される。






クラスの女子から、「優くんってかっこいい」という噂を耳にする事も、あの頃はあった。






今はどうだろう?この剥れあがった丸顔に、顎を触れば無作法に伸びた髭をした自分は…。





いや、自分は大丈夫。あいつらに何を言われようが、奴らはまだ所詮、銀色の折り紙を貰えない人間。それだけの人間なのだ。





あんな奴らと一緒にするなよ。僕は…僕は蝉なのだ。









だってほら、この青白いパソコンの中で…今日もカチカチとキーボードを叩いて、綺麗な音で鳴いているだろう?
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