BLUE SKY~裸足の女神~
第一章 夏のキャンバス
夏休み前。
放課後の海は西陽に変わろうとする陽射しを受けてキラキラと眩しい。
活発なクラスメイト達のはしゃぐ声……
海水浴や水浴びなんかを終えた彼らの笑い声も、僕の耳に眩しく響く。

(青春……してるなぁ)

耳にするだけで光り輝く白い歯が目に浮かぶような、そんなはしゃぎ声を他所に、僕はキャンバスに筆を走らせた。

オレンジ色の夕陽に染まりつつある空、今年も磨りガラスごしに眺めるだけであろう『夏』を予感させる青々とした海……。
その全てを僕は筆に乗せる。

海の波に乗せて、青色を走らせる。
夕陽に乗せて、オレンジ色を染めてゆく。
眩しいはしゃぎ声に乗せて、海をキラキラと輝かせる……。

こうして風景を描いている時、僕の前の景色はゆらゆらと揺れ動き、ぼんやりと薄くなる。
だがしかし、僕の前のキャンバスの中の風景は、くっきりとその輪郭を表す。

まるで、実際の風景とキャンバスに描いた風景が取って替わったような……そんな錯覚を起こすのだ。

そして、僕の魂は僕の描く風景と一つになる……。





「ねーぇ、蒼(そう)。何、描いてるの?」

目の前に広がる海のような透き通った声に、僕は我に返って顔を上げた。

「星羅(せいら)……」

目の前では、久しぶりに僕に声をかけた幼馴染が、細めた目を狐のようにニーッと横長にして悪戯な笑顔をつくっていた。
背に回した左腕の肘を右手で持ち、少し首を傾げている。

「星羅には、関係ないって」

僕は吸い込んだ空気を僅かに頬に入れて膨らまし、プイッと横を向いた。

「あーっ、ひっどーい。久しぶりに話した幼馴染に言う言葉?」

星羅は瞳をリスのような円らなアーモンド型に戻して、しかし、腕を伸ばしてひょいと僕のキャンバスを取り上げた。

「あ、こら……」

「凄い、綺麗……」

キャンバスを見た星羅は目を丸くした。

「勝手に取るなよ」

僕はふてくされてキャンバスを取り返した。

「どうしてよ。蒼の絵、前よりずっとずっと上手になってるじゃない」

「そんなことないよ。何も、変わんない。この絵には、やっぱり……足らないんだ」

僕は憂いを含んだ目でキャンバスを見る。

「でも……私、昔から蒼の絵、凄く好きなのよ」

星羅は細長く美しい眉をグッと下げた。

その時……

「おーい、星羅。何してんだ?」

もうすっかりオレンジ色の空を映す海の方から、男らしい粗野な声が聞こえた。
その声を聞いた僕の気持ちはどんよりと曇るように落ち込んだ。

「あ……ごめん。呼ばれちゃった」

星羅は猫のように可愛らしく結んだ口から、赤い舌をペロッと出した。

「行きなよ。初恋の……彼氏なんだから」

「うん……」

星羅は頬を少し桃にした。

(ドクン……)

僕の胸は一回の鼓動とともに、言いようのなく苦しい痛みに包まれた。
その男子……相模 仁(じん)のもとへ駆け寄る星羅の後ろ姿をただただ見つめ続けることしかできなかった。





星羅は、高校に入ってから急に垢抜けた。
お互いに中学生の頃までは、男勝りな彼女はヤンチャっ子……近所でもじゃりん子と呼ばれていた。
それが、高校に入学した途端に髪は教師に気付かれない程度のやや茶色に染め、学校にいる間以外にはお洒落なネックレスをつけてフレグランスの香水をつけるようになったのだ。

それが、クラスメイトの水泳部のエース、相模に一目惚れしたためだと知るのに、そう時間はかからなかった。

保育園時代からの幼馴染だった星羅は、悩み事があると、必ず僕に相談した。

そして、彼女が僕に初恋の相談をした時……まさに、その時、気付いたのだ。
僕は星羅のことが、どうしようもなく、泣きそうなくらい好きだったんだって。

夏休み前のこの時期は、期末テスト返しの期間だ。
最終の数学のテストを返す前に、担任の数学教師、高東が言った。

「この期末の数学、このクラスで満点を取った奴が二人いるぞ」

クラス内が騒つく。
クラスメイト達は、よく話す友人とアイコンタクトをとり、その満点が誰なのかを探るように視線を泳がせる。
ゆらゆらと波のように漂うクラスメイト達の視線……それは、クラスの人気者で且つ優秀な人物に集まる。
当然、僕はその波には触れることさえ許されない。

自分の席……教室の窓際の片隅で、小さく、自分を小さくして、ひたすらに何事も起こらないことだけを願った。

「まず、一人目は相模だ」

その瞬間、クラス内のザワザワは歓声に変わった。

「すげぇ! 流石、相模」

「よ、クラスのエース!」

クラスのお調子者の金川や倉原達が、人気者の相模を持てはやす声が飛び交う。
相模の隣の席……一学期最初の席替えで自分から望んで隣の席になった星羅が、星が散りばめられるかのように瞳を輝かして相模を見つめているのが目に入り、やるせなかった。


「そして、もう一人」

和気藹々と相模を包むクラスメイト達の声を、高東の声が遮る。

「更科だ」

途端に教室は静寂に包まれた。

(余計なことを……)

僕は心の中で舌打ちをした。
このクラスの中でいないものとして扱われている僕の名前を呼んでも、白けるに決まっている。
特に人気者の名前を呼ばれてクラスの雰囲気が盛り上がっている直後に呼ばれたりすると、尚更、自分が『幽霊』だと実感する。

静まり返った教室の中、壁が急速に迫り来るような感覚に襲われて、僕はどんどん息苦しくなる。
自分の感覚が消え失せていき、この教室の中で、僕という存在は薄まってゆく……。

その時だった。

「すごぉい、蒼。流石ね!」

突如、透き通る声が教室の中に響き渡った。
教室内の視線が忙しなく動いて絡まり合い、相模の隣……星羅の席に集まった。
ほとんど消失していた僕の存在は、徐々にその輪郭を取り戻す。

クラスメイト達は意外な出来事に呆気に取られ、教室内の空気は硬直している。
しかし、そんなことにはお構いなしに星羅の明るい声が響いた。

「蒼、昔から頭良かったもんね。また、勉強教えてね」

星羅のそんな声に対し、下を向いて小さく頷くことしかできない自分が嫌になった。
でも、クラス内で『浮く』ことなど恐れずに響く星羅の声は、僕の凍てついた心を明るく照らし、希薄となっていた僕の存在は幾分救われた。



夏休み前には授業は昼前に終わる。
放課後は、生徒達の笑い声が金色の陽射しに反射するように、キラキラと輝いている。
その輝きが眩しすぎる僕は、今日も砂浜の木陰に腰を下ろし、キャンパスに向かい合った。

溜息が口をついて出た。
昔は僕も、こんなんじゃなかった。
クラスのみんなと打ち解けられていて、休み時間には馬鹿話もして、笑い合って。
所謂、『普通』の生徒だった。

でも……それなのに、僕が『普通』でいることは、許されなくなったんだ。
遣る瀬無い想いが自分の胸を締め付けた。

キャンバスには自分の瞳に映るままの青空を描いている筈だった。
しかしその絵は、今の僕の心を反映してかどんよりと曇っているように見える。

(こうなったらもう、曇り空にしてしまえ)

僕は空に灰色の絵の具をつけた筆を走らせる。
何度も、何度も、自分の心を薄汚く汚すかのようにひたすら走らせる。

その結果、キャンバスにはどんより曇った……薄汚れた空が出来上がった。

「あらぁ、今の空、こんな空してるっけ?」

不意に声を掛けられ、ハッとして振り向いた。
さっき、教室の中に響いた澄んだ声。
輪郭を失いかけていた僕を引き戻してくれた、救いの声。

「星羅……」

「蒼。また、一人で絵描いてんの?」

「別にいいじゃん。一人で描いてても」

自分を救ってくれた透き通る声に対して不貞腐れた態度をとる自分が嫌になる。
しかし、星羅はそんなことは気にせずに、目を柔らかく細めて白い歯を見せた。

「海!」

「えっ?」

「足だけでもつけたら、気持ちいいよ!」

「え、あ、ちょっと……!」

星羅は、僕の腕を掴んで波打ち際に連れてゆく。
寄せては返す波は、まるで星羅の瞳のように透明で澄んでいた。

「靴、脱いで入りなよ!」

そう言うや否や靴を脱いで裸足になった星羅は、くるぶしまで浸るくらいに透き通った海に入っていた。
金色の太陽に照らされてはしゃぐ彼女はまるで女神のよう……キラキラと眩しくて、とても気持ち良さそうで。

僕も靴を脱いで裸足になり、透明な水の中に入った。
久しぶりに入る海は僕の足を透かすのような冷たさがあり、心地良い。

「ほぉら!」

星羅がふざけて、水飛沫をかけてきた。

「わっ、冷たっ! やったな!」

僕もやり返すと、彼女はまるで幼い子供のようにキャッキャと笑った。

幼い子供……そう。
幼い時は僕と星羅は、よくこの海でこんな風にして遊んでいた。

足元をすり抜ける青や黄のカラフルなスズメダイを追いかけたり、水飛沫をかけ合ったり、白い砂浜でお城を作ったり。
まるで兄妹のように、いつも一緒にいた。

それが、いつからか……僕には『陰』のレッテルが貼られるようになった。
だから、いつでも明るくて『人気者』の彼女には、自分からは話しかけることさえ躊躇われるようになったのだ。

海で彼女とはしゃぐ僕は、幼い子供に戻りつつも昔のような輝きを取り戻すことのできない自分に、鬱屈としたものを抱えていた。

「ねぇ、蒼」

はしゃぎ疲れて木陰で僕の隣に腰をかけている星羅は、少し眉を曇らせて僕に顔を向けた。

「ん?」

星羅がこの顔をする時は、きっと……。
分かってはいるが、いつも通りに御節介を促した。

「蒼もさ、もっと、クラスのみんなと仲良くしようよ」

「放っといてよ」

僕はぷいと横を向いた。

「放っとけないよ」

星羅は細長く、美しい眉を下げて悲しげな顔をした。

「蒼、昔は……小学生の頃も、中学生の頃も、すごくみんなと仲良かったじゃん。明るくて、みんなの人気者で。それなのに、どうして意地はってるの?」

「意地はってなんかないよ」

僕はキャンバスを抱えて立ち上がった。

「僕は、もともと、こうなんだ。暗くて、陰気で、みんなと何喋ったらいいのか分からなくて……。昔は、強がっていただけだ」

空の青色を薄っすらと赤色に染めてゆく夕焼けを見つめた。

「強がって……本当の自分を隠して人と付き合うなんて、無理なんだよ。だったら、『本当の自分』のままでいて、誰とも関わらない方がいい」

「私は、そうは思わない」

頬を夕焼けで赤く染めた星羅は、悲しげに潤ませた瞳を僕に向けた。

「誰とも関わらない方がいいなんて、そんなこと……きっと、本当の蒼のこと、みんなも好きになる。蒼が仲良くなろうとさえしてくれたら……」

「ならないんだよ」

僕はスッと目を閉じて溜息をついた。

「本当の僕なんて、誰も見向きもしなかった。星羅だって、分かってるでしょ?」

「で……でも」

星羅が言葉を続けようとした時、彼方……キラキラと眩しくはしゃぎ合っていたクラスメイト達の方から、彼女を呼ぶ声が聞こえた。

「彼氏のもとに、行きなよ」

僕は踵を返してオレンジ色を反射する海から遠ざかって行った。

「星羅がいるべき場所は……こんな所じゃないんだよ」

一人言のように呟く僕の背中に、星羅の切ない視線が痛いほどに突き刺さった。
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