BLUE SKY~裸足の女神~
第三章 変わらない僕達
その夜。

「こんなチケット、あったところでどうするんだよ? 別に、一緒に行く人のアテもないし……」

そう呟きながら、家のベッドの上でボォーっとセブ島旅行ペアチケットを眺めた。
チケットには、青い空、白い砂浜の写真……そして、こことは比べ物にならないほどに透明で美しい海の写真が載っていた。

(こんな綺麗な海に……もし星羅と行けたら、楽しいだろうな)

透明に澄んだ海でキラキラと輝く星羅……それはきっと、『裸足の女神』と思えるほどに美しいだろう。
想像するだけで、その輝きが目に浮かぶようだった。

でも……。
星羅は今日、あいつの家に……。

「くそっ……」

僕は自分の勉強机に乱暴にチケットを置いて、それを忘れるように寝床に着いた。



朝。
昨日と全く同じような一日が始まった。
母に夏休みの常套句で起こされ、ハニートーストを食べてルルの散歩コールに応じた。

今日もキラキラと輝く海を眺めながら、海岸沿いを歩く。
僕はこうして、ただ自分を老化させるだけの時間を空っぽになって歩き続ける。
空っぽになって……。

その時だった。
昨日と同じ場所で、ルルがリードを思い切り前へ引っ張り立ち上がった。
僕は思わず前を見る。

「ルル、今日も、元気ね~!」

星羅がしゃがみ、ルルを撫でながら顔を近付けた。
ルルは星羅の顔をペロペロ舐める。

いつも通りの星羅だけど、何処か違和感を覚えた。
何処が違うかというと上手くは言えないんだけど、無理に元気に振る舞っているような、そんな違和感。

「あれ、今日もあいつの家行くの?」

尋ねると、ルルに舐められてくすぐったそうにしていた顔は曇った。

「それとも、もしかして……今、帰り?」

すると、彼女はすっと立ち上がった。
笑顔を浮かべてはいたが、澄んだ瞳は憂いの色を含んでいて……無理をしているのが分かった。

「ねぇ、蒼。私ね……」

その細長い眉の間に、悲しげな皺が寄る。

「フラれ……ちゃった」

その瞳には薄っすらと涙が浮かび、静かに輝いていた。

そして、僕は気付いた。
彼女の着ていたのは、昨日と同じ水色のワンピース……星羅はやっぱり、泊まったんだ。

「いや、フラれたって……」

「蒼、お願い」

涙を滲ませた言葉が、僕の言葉を遮る。

「それ以上は、聞かないで」

悲しげに潤ませた澄んだ瞳に見つめられ、僕は何も言うことができなくなった。



一人、海岸の木陰に座ってキャンバスと向かい合う。
青い空、澄んだ海……それを描かずにはいられない気分だった。

キャンバスに筆を走らせた。
いつも描いている風景。
しかし、いつも同じに見えて、いつも違う。
雲の形、カモメの数、寄せる波の色……。

僕の心も……いつも同じなようで、いつも違う。
そして、違うもの同士が向かい合い、毎回違う絵が完成するのだ。

でも……毎回描く違う絵に、確実に共通していることがある。

「足りない……」

僕は溜息をついた。

僕が描く絵には、やはり足りない。
風景は描き切っている……だけど、何か。
僕の心が一番欲している何かを描いていない。

それに……
没頭していたキャンバスから気持ちを離すと、やはり心に靄がかかった。

あの時の星羅の顔……潤んだ瞳。
脳裏に焼き付いたその表情は、『彼女をこのまま放っておいてはいけない』とばかりに、心の扉をドンドンと叩く。

でも、どうやって……。
僕は昨日、相模の家で何があったのか、星羅のあの表情の理由は分からない。

でも……彼女のあの光り輝く女神のような笑顔を僕は見たい。
そう。
青く澄んだ、果てしない空の下で……。

「そうだ!」

僕は俄かに思いつき、立ち上がった。

(あるじゃん。まさに、星羅にぴったりの場所が)

オレンジ色の西陽に変わろうとする光を背に、キャンバスを抱えて走った。



『ピンポーン!』

僕は白い壁をしたお洒落な家のインターホンを鳴らした。
手にはあのチケット……セブ島旅行のペアチケットを握っている。

「はい……」

「星羅、僕だよ。ちょっと、話したいことがあって」

「うん。ちょっと、待ってて」

夏休みでも彼女の家は両親が共働きで、一人だ。
インターホン越しの彼女は、やはりちょっと元気がなかった。

『ガチャン』

ドアが開いた。
彼女の瞳は……隠そうとはしているが、まるで泣きはらした後のように赤くなっていた。

僕は、敢えてそのことには気付いていない風に切り出した。

「星羅。一緒に……セブ島旅行行かない?」

「セブ島……」

僕は頷いた。

「商店街の福引きでさ、ペアチケットが当たったんだ。ほら、見てよ。青い空に白い砂浜……きっと、楽しいよ!」

僕はつとめて元気に笑顔でそう言った。
彼女は束の間、ぼんやりしていたが、すぐに僕を照らす太陽のような笑顔を向けてくれた。

「すごいじゃん! セブ島……私、一回行ってみたかったの」

チケットの写真を見てキラキラとはしゃぐ。

良かった……これが、いつもの星羅だ。
僕はにっこりと笑う。

「でも、ホントに私なんかが行っていいの? だって、私……」

「星羅がいいんだよ」

不安そうな声色を遮った。

「星羅には、いつも元気をもらってるからさ。今度は僕に……お返しをさせてよ」

そう言うと、彼女は頬を桃色に染めた。
そして、照れ隠しにいつもの狐になる。

「だったらさ、水着」

「えっ?」

「私、スクール水着しか持ってないの。明日、お洒落なの、買いに行きましょ。蒼もイケてるの、選んだげる」

「い、いや、水着って」

「なぁに今さら、赤くなってるの? 私と蒼の仲じゃない」

いつもの調子を取り戻した星羅は、面白がって僕をからかう。
僕は顔を火照らせながらも、そんな彼女を見てホッと胸を撫で下ろした。



翌日。
町に最近できたショッピングモールの水着店の試着室の隣に置かれた椅子に座り、僕は時間潰しに持って来た本を読んでいた。

「ねぇ、蒼。これなんかどう?」

試着室から出た星羅を見て、本を落としそうになった。

「ちょ、星羅……。何て水着を……」

「何、赤くなってんの。今時、みんなこのくらいのビキニ、着てるわよ」

「い……いや、そんな格好で出てきたらダメだって。周り、男もいるし……」

僕は顔をさっきよりもさらに火照らせる。
そんな連続だった。

星羅が元気を取り戻してくれて嬉しいし、それに、水着姿はまさに女神のよう……セブ島の果てしない青空の下での彼女の美しい立ち姿を想像するだけでドキドキする。
でも、彼女の水着姿を他の男の視線に晒したくない……。

そんな感情がせめぎ合って、僕は周りへの警戒と、無頓着な格好で出て来る彼女を衆目から隠すことで、神経をすり減らしていた。

彼女が最終的に『パレオはエメラルド!』とか言いながら白色の水着にエメラルドグリーンのパレオを選んだ時には、僕はグッタリと疲れ込んでいた。

「あれ、蒼。あなたの水着は?」

「僕? ああ、これでいいや」

僕は適当に目についた茶色の海パンを指差した。

「ダーメ、そんなダサいの。全然イケてない。私のこの可愛い水着と釣り合うようなのじゃなきゃ」

「え、釣り合うって……」

思わず聞き返すと、星羅はハッと気付いたように赤くなった。

「い……いや、そんな意味じゃないわよ。ほら、イケてない水着の男と一緒にいたら、恥ずかしいでしょ」

慌てた様子の彼女に、僕の緊張も解けた。

「分かった、分かった。じゃあ、納得のいくものを選んで下さいよ、女神様」

「あ、何かその言い方、馬鹿にしてる~」

「してないって」

そんな調子のやりとりの末、星羅は僕に青いヤシの葉柄のついた水着を選んだ。

「こんな派手なの、はいたことないって。それに、高いし」

「ケチケチしないの。一回買ったら、ずっと使えるでしょ。ねぇ、それより、お腹すかない?」

「あぁ、そうだな。お昼しよっか」

「うん! 入り口に、お洒落なイタリアンあったんだ!」

僕が会計を済ませるや否や、星羅はモール入り口近くのレストランへはしゃぎながら歩いて行った。

やれやれ。
女神に振り回されるのも大変だ。
でも、僕にとっては、それが楽しくて仕方なくもあるんだ。
太陽のように眩しい女神に付いて、僕も店に入った。

「何名様で?」

「二人よ!」

店員さんに元気にそう答える星羅に、僕はまた照れてしまう。
店員さんが僕達を見る目……それは、高校生のカップルを微笑ましく見る表情を浮かべていたのだ。

しかし……店員さんに連れられて席に案内された瞬間、星羅の表情は凍りついたように固まった。
僕は不思議に思って、彼女の視線を辿った。

彼女の視線の先を辿ると……そこには、案内された隣の隣の席でクラスメイトの沙由里と楽しそうに話す相模の姿があったのだ。

「え、相模……。これって……」

「すみません。やっぱり、ここでお食事はしません」

星羅は突如、店員にそう言って足早に出口へ向かった。
訳が分からずに付いて行く僕には目もくれず、彼女は店を出て、ショッピングモールも出て歩き続ける。

無言で歩く彼女の瞳には涙が滲んでいるようで、触れられない……触れてしまったら壊れてしまいそうな、そんなオーラを纏っていた。
僕はそんな彼女に話しかけることもできず、モールに隣接している海岸へと歩く彼女をただただ追いかけていた。

「ねぇ、蒼」

「えっ?」

海水浴場からは外れている誰もいない海岸で、星羅は口を開いた。
僕は彼女の声がいつも通りの響きであることに驚きながらも、それが逆にいつも通りではないことのようにも思えた。

「泳がない?」

「えっ、今? わっ!?」

星羅が買ったばかりの水着に着替え始めて、僕は慌てて後ろを向いた。

「いや、ちょっと。いくら幼馴染だからって……」

「なーに、また赤くなってんの。小さい時は、一緒にお風呂入ったりもしたじゃない」

「いや、あの時と今は、違うって」

「違わないよ」

僕達以外誰もいない海岸で、買ったばかりの水着に速着替えをした星羅は憂いを含んだ瞳をそっと細めた。

「あの時と……違いたくない」

「星羅……」

僕は夕陽に照らされる彼女を見つめた。

「ねぇ、蒼。私ね、馬鹿なの」

「えっ?」

「あの人……仁の気持ちが私にないってこと、ずっと前から気付いてたんだ。でも……私の『初めて』を捧げたら、きっと、私に振り向いてくれる。そんなことを信じてた」

「星羅、もしかして……」

「あの人ね、あの日……私が泊まった日。ヤッた後、『もう、冷めた』って、そう言ったの。信じられる? 結局、ヤリたかっただけだったのよ」

「そんな……」

僕は衝撃のあまり、動けなくなった。
星羅の言うこともだったけど、僕の大事な……この世界で一番大事な彼女を、そんな一言で冷たく振ったあいつの言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けたのだ。
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