優しいスパイス
ドクンと心臓が跳ねる。



至近距離に映ったのは、黒いシャツ。



背が高いようで、若干の威圧感と不安を覚えながら、ゆっくりと顔を上げる。



シャツからのぞく、形の良い鎖骨。



スラッとのびる首筋。



細く弧を描いた顎。


薄い唇。


筋の通った鼻。




綺麗な、切れ長の目。




その瞳と視線が繋がって、ハッと息を呑んだ。




「あ………」



貴方は、誰。



そう言いたいのに、さっきまで走っていたせいで、喉の奥が詰まって上手く声が出せない。



彼は、無表情のまま、じっと私を見つめた後、少しだけ顔を近付けた。



ふわ、と。爽やかでほんのり甘い匂いが、かすかに鼻を抜ける。



「……大丈夫か?」



短く、低い声が、ズン、と胸の奥を揺らした。



「あ、えっと、何が、」



やっと出た声が、挙動不審のように途切れ途切れに絞り出される。



何が、なんて白々しい。



自分で言っておきながら、そう思った。




脇目も振らず、校内を全速力で走り続ける女。


あてもなく、人の波を横切って。



誰が見たって、何もないわけがない。



きっと、この人にも、そう思われたんだ。





時間の経過とともに、上がっていた息が徐々に落ち着いていく。



苦しかった呼吸が穏やかになったせいで、思考がゆっくりと働き始める。



考えたくなかったことを、脳が勝手に掘り起こしていく。



嫌だ。嫌だ。考えたくない。




「わ、私、行きますので……」




慌てて言葉を紡いで、頭を下げ、彼から離れようと足を踏み出した。



だけど、彼は私の二の腕を掴んだまま放してくれない。進めない。



「あの……」



恐る恐る振り向いて顔を上げると、もう一度、綺麗な切れ長の瞳と目が合った。



思わず心臓が跳ねる。



射抜くような瞳。



鋭く心の内まで見透かされそうな。



だけど、そんな中に、優しい色が浮かんでいて、不思議にも目が離せなくなる。



囚われてしまったように、その瞳に魅入っていると、表情の変わらない彼の口がゆっくりと開いた。








「……泣きそうな顔」



「…………え……」






静かに響いた彼の低い声は。

今にも湧き上がりそうだった危うい感情に、優しく、優しく、触れた。

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