優しいスパイス
香恋からの電波を遮断して、真っ黒に消えた画面を見つめる。



「……いい場所がある」



タイミングを見計らったかのように、低い声が静かに存在感を示した。



彼の存在を思い出してハッと振り返ると、彼はチラリと私を見た後、階を上っていくボタンを見つめる。



その視線をたどって同じくボタンに目を向けると、押されていたのは最上階の七階だった。



「いい、場所……?」



急に不安が押し寄せて、押し出された空気と一緒に声を出す。



七階は確か、研究室と称した空き部屋が並んでいるだけの階だったはず。



学生はもちろん、教授も七階まで行くことはほとんど無い。



そっと横目で彼を見ると、完璧なまでに整った無表情。


無造作な黒髪が目元に影を作っていて、余計に表情が読めない。



そんな姿につい見入っていると、チン、と軽やかな音が七階への到着を告げた。



「降りるぞ」



そう言って私を見た彼と、不意に視線が繋がる。



ドクンと心臓が跳ねて、あ、と思わず声が漏れた。



彼は、そんなこと気にもしてない様子で、開いたドアに視線をやり、先に出るように促す。



羞恥で脈が揺らぐのを感じながら、サッとドアに目を向けてエレベーターから出た。



密閉された空気から解放されて、少し低く感じる温度が皮膚に触れる。



「来て」



いつの間にか私の隣に並んでいた彼が、短くそう呟いて先に歩き出した。



少し不安を感じながらも、言われるままに彼のあとをついていく。





コツ、コツ、と二人分の靴音だけが反響する。



それが静けさを助長して、緊迫した空気が流れていく。



壁に並ぶ“研究室”と書かれたドアは、どれも教授の名前が空欄のまま。本当に空き部屋しかない。



こんな所、学生も教授も来ることはないはずなのに、彼はまるで知り尽くしたように奥まった場所へと進んでいく。



向かっていく先は、天井の蛍光灯が古びた光を放っていて妙に薄暗い。



不安がますます大きくなって、歩くスピードをわざと落とした。







「……不安?」






ポツリと。前を歩いていた彼が短く言って、ピタリと足を止めた。





は、と息を呑んで、立ち止まる。



歩く速度を落としたのがバレたんだ。




足音すら無くなった無音の廊下に、ドクドクと心臓を打ち付ける脈の音が響く。




何と答えればいいかわからなくて黙りこくる私に、ゆっくりと彼が振り返った。






薄暗さに映えるシルエット。



それは、計算され尽くされた芸術作品のように完璧で。



蛇に睨まれたように動けなくなった体が、脈だけを刻む。




彼の伏し目がちな流し目が私を捉えた瞬間、息が詰まって、私の意図しない体の奥底で何かが音を立てた気がした。

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