優しいスパイス
「そんな怯えなくていい」



落とされた低い声は、私を安心させるように優しく響いた。



彼を信用できる決定的な何かなんて何もないのに、胸を覆っていた不安がジワジワと溶けていく。



それによって得られたものは安堵ではなくて。

よくわからないけど、奥の方で何かがソワソワと騒ぎ立てている。



「だ、大丈夫、です」



少し裏返えりながら返事をすると、彼は視線を戻して、また歩き始めた。



コツ、コツ、と足音が響く。



古びた蛍光灯が、ジリリ、とたまに音を立てる。



さっきまでと同じ、静かで薄暗い廊下なのに、もう不安は感じなかった。



このまま、ずっとずっと遠くまで行ってしまいたいとすら思う。


香恋も春木先輩もいない見知らぬ世界へ――。




しばらく歩くと、廊下の一番端までたどり着いて、彼が立ち止まった。



それに合わせて私も止まると、彼の視線が左横にある階段へ向く。



「着いたよ。あんたが泣ける場所」


「え?」



彼の視線の先を見ると、そこは全く使われていないまま掃除だけ行き届いた綺麗な階段。



「そこなら、誰も通らねーから」



そう言われて初めて、彼の目的を理解した。



彼は、私を、気兼ねなく泣ける場所に連れてきてくれたんだ。



「ありがとう、ございます」



そう言って彼を見上げると、全く崩れない無表情がフッと緩んだ気がした。



優しいんだな。



私の胸の奥も、何かがフッと緩む。




ここには、香恋も春木先輩も来ることがない。


来たことのないこの場所は、日常を感じさせない。


それが、どれほど今の私を救っているかなんて、彼は知らないんだろうけど。




階段に視線を向けると、小窓からこぼれる優しいオレンジ色の光が、私を招き入れるように一番上の段を照らしていた。



人ひとり通らない殺風景な場所なのに、なんだか優しい。



じわじわと、胸の奥につっかえているものがほぐれていく。



ここにずっと居たい。


彼と、この場所に、ずっと居たい。



戻りたくない――。




そう思ったら、ぎゅうっと胸の奥が苦しくなって、何かがこみ上げるように目頭が熱くなった。



そのまま、すーっと温かい水が頬を伝っていく。



何なんだろう。


悲しい? 辛い?

もっと違う、言い知れない感情が、胸の奥を締め付けている。



ゆらゆらと揺れる視界に、差し込む光が温かい。



隣にいる彼は何も言わない。


だけど、その気配がとても優しい。



「ふぅっ……」



堪らずに嗚咽を漏らすと。

ポン、と、頭に優しい振動が乗った。



「使って」



低くて落ち着いた声と同時に、白いタオルハンカチを差し出される。



揺れる視界に映ったそれを、そっと受け取ると、また胸が苦しくなって涙が出た。



「うぅっ……ふぅっ……」



押し出されるものが止まらなくなって、彼から逃げるように階段へ駆け寄る。



彼に背を向けて座り込んで、手に持った彼のタオルハンカチを濡れた顔に押し当てた。



ふんわり柔らかい繊維が、優しく涙を吸い取っていく。



鼻腔をかすめる、爽やかでほのかに甘い匂い。


きっと、彼の匂い。




「っ……ふうっ……うう……」



喉が震えて苦しい。



胸を締め付ける感情が何なのか、わからない。







そんな中で、一瞬、感情とは離れた脳の片隅で。



“俺、冬が好きだからさ。雪瀬紫映って名前、冬っぽくてすげー好き”


“雪瀬ちゃんって呼んでいい?”



春木先輩の懐かしい声を、思い出していた。

< 16 / 155 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop