優しいスパイス
――――――……
どれくらいの時間が経ったんだろう。
気がつけば流す涙も無くなっていて、ただ顔をハンカチに押し付けたままうずくまっていた。
そっとハンカチから顔を上げると、今まで遮断されていた光が目に入って目を細める。
徐々に光に慣れて目を開くと、正面の小窓から、すっかり暗くなった空が見えた。
ハッとして、横にある鞄の中を漁る。
今、何時だろう。
鞄の中のスマホを見つけて、それを取り出そうとした時。
視界の端に、何かが見えた。
驚いて体をひねり振り返ると、そこにいたのは、壁際に座る彼。
片膝を立てて片腕を乗せ、体重を壁に預けて座っている。
相変わらず崩れる様子のない、彼の整った無表情が、スッと私に向いた。
「落ち着いた?」
彼の低い声と、優しい色を含んだ切れ長の瞳に、心臓が跳ねる。
「あ、えっと、はい」
慌てて返事を返すと、彼の表情がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「そう」
低く落ち着いた声が、鼓膜を揺らす。
じわり、と胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼は、ずっと、ここに居てくれたんだ。
何も言わず、ただただずっと、居てくれた。
「あの、ありがとうございます」
もう少し彼とここにいたい。
不意に湧き上がったそんな考えを打ち消すように、慌てて鞄を持って立ち上がった。
「もう帰る?」
彼はそう呟いて、立ち上がる。
「は、はい……」
小さく頷くと、彼が「送る」と言って先に歩き出した。
その後ろを数歩分あけて、彼についていく。
コツ、コツ、と静かな足音が、薄暗い廊下に寂しく響く。
前を歩く背中は、そんなこと微塵も感じていないようで、それがさらに寂しさを助長させた。
非日常から日常へと帰ってしまう。
この非日常をもう少し感じていたかった。
一歩一歩、終わりが近づいている。
しばらく歩くと、日常へと導くエレベーターの前で、彼が立ち止まった。
私が彼の隣に到達したタイミングで、ちょうどよくドアが開く。
彼に続いて中に乗り込むと、背後でドアが閉まった。
非日常と日常の間の、不安定な空間に閉ざされる。
二人だけの空間。
それを感じた瞬間、緊張が鼓動を揺らした。
目の前にある彼の胸元が思ったよりも近い。
それに気付いて、慌てて視線を逸らし、顔をうつむけた。
その視界に、手に持ったままの白いハンカチが映る。
ふんわりと柔らかかったハンカチは、涙に濡れて力なくしおれていた。
そうか。と。
灰色に寂れていた心に、一点の光が灯る。
私は彼にもう一度会わなきゃいけないんだ。
ハンカチをちゃんと洗って返すために。
非日常は、これで終わるわけじゃないんだ。
そう思うと、胸の奥が躍りだした。
チン、と短く音が鳴って、背後でドアが開いたのがわかる。
これで終わりじゃない。
そう言い聞かせて、ぎゅっと手に持ったハンカチを握りしめた。
「あの、ハンカチ、また綺麗にして返しますね」
ぺこりと頭を下げてから顔を上げると、彼が何かを言おうと口を開く。
それを遮るように、「それから」と言葉を続けて、一歩後ろに下がってドアを出た。
「送ってもらうのはここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
もう一度一礼して、彼の反応を見る前に、体を反転させた。
少し小走りで、エレベーターをあとにする。
校舎の出口へ真っ直ぐ向かう。
窓から見える外は完全に夜で、校内を歩く人も少ない。
小走りのまま出口を抜けると、雨上がりのヒンヤリした空気が肌を刺した。
そっと振り返ってみると、やっぱり彼はもういない。
夢、だったような気さえする。
だけど、手には確実に、彼のタオルハンカチが握られている。
日常の景色を見ながら、まだ非日常の夢を見ているような、不思議な気分。
真っ暗な空を仰ぎ見ながら、はぁ、と息を吐いた。
浮ついていた思考が、ゆっくりと、現実へ帰ってくる。
そういえば私は、彼の名前も、どこの学部かも、何も知らない。
会わなきゃいけない、なんて思いつつも、会う手段なんて何もないことに気が付いた。
はぁ、ともう一度息をついて、校門へと向かう。
明日、香恋と顔合わせにくいなぁ。
ズン、と胸に重りを乗せて、ゆっくりと帰路を歩いた。
どれくらいの時間が経ったんだろう。
気がつけば流す涙も無くなっていて、ただ顔をハンカチに押し付けたままうずくまっていた。
そっとハンカチから顔を上げると、今まで遮断されていた光が目に入って目を細める。
徐々に光に慣れて目を開くと、正面の小窓から、すっかり暗くなった空が見えた。
ハッとして、横にある鞄の中を漁る。
今、何時だろう。
鞄の中のスマホを見つけて、それを取り出そうとした時。
視界の端に、何かが見えた。
驚いて体をひねり振り返ると、そこにいたのは、壁際に座る彼。
片膝を立てて片腕を乗せ、体重を壁に預けて座っている。
相変わらず崩れる様子のない、彼の整った無表情が、スッと私に向いた。
「落ち着いた?」
彼の低い声と、優しい色を含んだ切れ長の瞳に、心臓が跳ねる。
「あ、えっと、はい」
慌てて返事を返すと、彼の表情がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「そう」
低く落ち着いた声が、鼓膜を揺らす。
じわり、と胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼は、ずっと、ここに居てくれたんだ。
何も言わず、ただただずっと、居てくれた。
「あの、ありがとうございます」
もう少し彼とここにいたい。
不意に湧き上がったそんな考えを打ち消すように、慌てて鞄を持って立ち上がった。
「もう帰る?」
彼はそう呟いて、立ち上がる。
「は、はい……」
小さく頷くと、彼が「送る」と言って先に歩き出した。
その後ろを数歩分あけて、彼についていく。
コツ、コツ、と静かな足音が、薄暗い廊下に寂しく響く。
前を歩く背中は、そんなこと微塵も感じていないようで、それがさらに寂しさを助長させた。
非日常から日常へと帰ってしまう。
この非日常をもう少し感じていたかった。
一歩一歩、終わりが近づいている。
しばらく歩くと、日常へと導くエレベーターの前で、彼が立ち止まった。
私が彼の隣に到達したタイミングで、ちょうどよくドアが開く。
彼に続いて中に乗り込むと、背後でドアが閉まった。
非日常と日常の間の、不安定な空間に閉ざされる。
二人だけの空間。
それを感じた瞬間、緊張が鼓動を揺らした。
目の前にある彼の胸元が思ったよりも近い。
それに気付いて、慌てて視線を逸らし、顔をうつむけた。
その視界に、手に持ったままの白いハンカチが映る。
ふんわりと柔らかかったハンカチは、涙に濡れて力なくしおれていた。
そうか。と。
灰色に寂れていた心に、一点の光が灯る。
私は彼にもう一度会わなきゃいけないんだ。
ハンカチをちゃんと洗って返すために。
非日常は、これで終わるわけじゃないんだ。
そう思うと、胸の奥が躍りだした。
チン、と短く音が鳴って、背後でドアが開いたのがわかる。
これで終わりじゃない。
そう言い聞かせて、ぎゅっと手に持ったハンカチを握りしめた。
「あの、ハンカチ、また綺麗にして返しますね」
ぺこりと頭を下げてから顔を上げると、彼が何かを言おうと口を開く。
それを遮るように、「それから」と言葉を続けて、一歩後ろに下がってドアを出た。
「送ってもらうのはここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
もう一度一礼して、彼の反応を見る前に、体を反転させた。
少し小走りで、エレベーターをあとにする。
校舎の出口へ真っ直ぐ向かう。
窓から見える外は完全に夜で、校内を歩く人も少ない。
小走りのまま出口を抜けると、雨上がりのヒンヤリした空気が肌を刺した。
そっと振り返ってみると、やっぱり彼はもういない。
夢、だったような気さえする。
だけど、手には確実に、彼のタオルハンカチが握られている。
日常の景色を見ながら、まだ非日常の夢を見ているような、不思議な気分。
真っ暗な空を仰ぎ見ながら、はぁ、と息を吐いた。
浮ついていた思考が、ゆっくりと、現実へ帰ってくる。
そういえば私は、彼の名前も、どこの学部かも、何も知らない。
会わなきゃいけない、なんて思いつつも、会う手段なんて何もないことに気が付いた。
はぁ、ともう一度息をついて、校門へと向かう。
明日、香恋と顔合わせにくいなぁ。
ズン、と胸に重りを乗せて、ゆっくりと帰路を歩いた。