蚤の心臓
爪先でトントンと床を蹴りながら彼はドアノブに手をかける。行ってらっしゃいと私が手を振る寸前で思い出したように、「日の出町」と彼は言った。
 
「日の出町まで、行ってきます」
そう言って、彼は静かに部屋を出て行った。
やけに遠くへ行くじゃないかと、残された私は独り言を我慢した。

付き合うことになり、合鍵をもらって同棲を開始するにあたりまっ先に言われた。
「紹介できるような親はいないんだ、ごめんね」
両親ともに亡くなっていることは初日に聞いていたから、別にそんなことは想定していなかった。全然かまいませんよと返してから、「私も紹介できません、ごめんなさい」と返した。
彼は少し驚いたように目を点にして、「君の家はそうでもないでしょう?」と聞き返してきた。
 
犀麦に自分の家のことはあまり話していなかった。
ちょっと寂しい幼少期だったということと実家に対して自分がドライな気持ちを抱いていることは説明したけれど、今でも実家に脅かされているだとか、安心して眠ることのできなかった10年以上の日々について彼氏に話すことはあまりに馬鹿らしく思えた。

自分の半生を不幸だと信じきっている彼に対して自分の不幸話をぶつけるのも大人げないように思えて、私はあくまでも言葉を飲み込みながら彼の傍で同情しているような態度をとり続ければいいのだと思った。自分の不幸なんて彼の幸せに比べればどうでも良いと思えた。
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