蚤の心臓
彼の部屋は玄関に積まれたビールの空き缶以外、特に何の変哲もないモデルルームで、たまにヘアアイロンとか危ないものが落ちていることがあって、でもやっぱり生活感からはほど遠くて。
彼が室内で吸っている煙草の匂いが壁にもシーツにもしみこんでいて、どこもかしこも甘いメンソールの香りがする。
これが私にとっての犀麦の匂いとなりつつある。
 
本当は好きではなかった。桃が嫌いで仕方なかった。
けれど好きな人がこの匂いを好きだというのなら私も好きでいようと決めた。
でも彼の部屋からたまに出る機会があればすぐ、バニラ味のリトルシガーを買ってきてコンビニ横で思いっきり吸ってから消臭剤で匂いを消して彼の元へと帰るようにしていた。

果物の匂いが好きじゃない。特に桃は好きじゃない。
でも別に私の好みなんて彼にとっては少しも関係のない話なわけで、そういうことが分かってしまっているから全部あきらめなくてはいけないわけで。
彼だって私のことを知ろうとはしなかった。彼にしたって私の都合だとかそういうものなんて心底どうでもいいことに違いなかった。

求められていないかもしれない、私でなくてもいいかもしれない。彼よりも少しだけ幸せそうに生きていて、けれど恵まれ過ぎていない程よく幸の薄そうな女の子なら、誰でもいいのかもしれない。
かもしれないっていうか、多分本当にそう。
 
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