蚤の心臓
その日、彼から電話がかかってきたのは23時過ぎだった。
立川までは出られたので迎えに来てくださいと、雑音の中で辛うじて拾えた声は言っていた。
中央線沿いに用事があって出ていた私はそのまま快速に乗って、立川へとすぐに向かうことができた。
待合室の中にいますと言われていたから電車を降りてすぐにホームを走って彼の元へと辿り着くことができた。
 
息も絶え絶えな電話口での声に少し心配していたのだけれど、彼はいつも通り飄々とした様子のままで特に私と目を合わせることもなく、「じゃあ、帰ろうか」となんでもないように言った。
椅子から立ち上がった彼は私に「ハイ」と手を差し出してきた。
なんだか拍子抜けしてその手を取ると、いやな温もりを感じた。
ぬるっとした手汗がお互いの掌の間に滲んで、思わず彼の横顔を見上げた。
何でもありませんみたいな顔をしたままで「どうしたの、ほら行くよ」と大人びた調子で手を引かれてしまい、私も気付いていないフリをして彼に従って電車へ乗り込んだ。
 
「青梅線だった?」
「そう、御嶽駅。19駅。ここまで1時間」
疲れたと溜息をついて、彼はガラガラの電車のシートに幅をとって座った。幸い他に人はほとんどいなかったから、彼が足を通路に投げ出したところで大した邪魔にはならなかった。

左の耳たぶが赤みを帯びていた。普段ピアスを付けているところだった。
ピアスをキャッチごとクルクルといじる癖が彼にはあって、苛立った時とか神経質になっている時はそれを過度に行うから、軽い炎症を起こす。
耳の先だけが赤く熱を持ってしまうことは度々あった。
今日も多分、ずっと触っていたのだろう。付けて行ったはずの透明のピアスがなくなってしまっていた。
 
乗り換えの吉祥寺駅まで私たちは言葉を交わさなかった。
犀麦はずっと疲れたと溜息をつき続け、たまに何かを思い出しては苛立ったように苦痛を顔に浮かべていた。
けれどそれを私に向けようとはしていなくて、私に向けないためにも1人で反芻をしているようだった。
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