蚤の心臓
どんなことがあったとしても私は彼の傍にいたいと思った。私だけは彼を捨てないでいようと決めていた。
けれどそれを見透かすように犀麦は度々言った。
「もしもぼくがおまえを1度でも殴ったら、絶対に赦したりなんてしないで、ぼくから離れて行けよ」
「別れたい時は殴る?」
「違う、殴ってもぼくはきっとおまえを好きだなんて言い続けるよ。そういう奴だから」
過去に女を殴ったことでもあるの?と聞こうとしてやめた。
これは多分あるなと聞く前になんとなく分かってしまった。

目を合わせないぼんやりとした態度。
「君」と「おまえ」で時々変わる呼称。
穏やかに振る舞うためにとってつけたかのような様々な彼の雰囲気の装飾品。
それらを信じきってはいなかった。
こんな人間いるわけないと分かっていた。何も抱えていない訳がない。後ろ暗い過去が1つもない人間なんかがいてたまるか。お綺麗なだけの彼氏なら私は絶対に要らない。
人間ってもっと腹の奥に色々持っているものでしょう、汚くてどうしようもなくて誰からも赦されないような理解したくもないようなずるさとか持っているものでしょう。
それが私1人だけのものだったら耐えがたいから、だからこそ私は彼にもそれがあると最初から疑ってかかっていた。

「ずっと前だよ、おまえくらいの年齢の時にOLと付き合っていて」
年上の彼女だからという理由で彼はかなり甘えていたらしい。
無茶なワガママを押し付けたり、すぐに不機嫌を露にしたり、彼氏らしい務めなんて1つも果たす気はなくてただどっぷりと彼女に依存をし続けたらしい。
求めれば与えられた、どんなことも笑って赦してくれた。要求をエスカレートさせればさせるほど彼女が自分を愛してくれていることが分かる気がして止められなくなり、最後は彼女が意識を失うまで殴り続けたらしい。
白目を向いて昏倒した姿を見て我に返った彼は慌ててそのアパートを出たきり、2度と戻らなかったそうだ。

「その人の名前、覚えてる?」
分かり切ったことを聞いてしまった。
当然、というように彼は薄っすらと笑ったままで首を横へと振った。
「そんな。昔にちょっと付き合っただけの人だよ」
付き合った女性の名前をロクに覚えていないのだと彼は笑う。カフカちゃんはきっと忘れないだろうなあ、フランツ・カフカだからなあと言ってくれたけれど、多分いつかきっとサンテグジュペリと混同することだろう。

初めてできた彼氏である犀麦の名前を現時点、私はまだ忘れていない。
けれどいつか彼のように忘れてしまう日は来るかもしれない。どれだけの苦痛を覚えたかすら、思い出せない日は来るかもしれないと、まだ痛む火傷を気にしてしまった。

少しずつ募るのは不信感だった。

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