セルロイド・ラヴァ‘S
脇に入った通りとは言え、クリーニング店があったりラーメン屋があったり。人も車も往来はそこそこだ。LEDの明るい街灯が数メートルごとに立ち並び、そんなに物騒な話も今のところ耳にした憶えはない。

ヒールの低いパンプスで歩道を早歩きしていて、肩がけのバッグの中でバイブの振動と着信音が鳴っているのに気が付いた。こんな中途半端な時間に誰?足を止めてスマホを取り出す。画面には『羽鳥大介(はとり だいすけ)』の表示。指をスライドさせて応答する。

「お疲れ様です、吉井です」

『あ、お疲れ様、羽鳥です。ゴメン吉井さん、いま電話大丈夫?』

「はい大丈夫です」

掛けてきた相手は、勤めてる不動産会社『グランドエステート』の営業さん。サポートというか彼のアシスタント的な事務仕事をよく任されたりする。だからこっちはプライベートなスマホだし他の営業さんの番号は登録していない。羽鳥さんだけだ。

こんな風に就業時間外に掛けてくる時は、それなりに緊急な用件だから。私は雨を避けるように無意識に、ちょうど通りすがりの喫茶店らしき軒下に立った。耳を澄ませて訊き洩らさないように。

『明日の松尾さんの契約なんだけど』

羽鳥さんの声には申し訳なさげな響きが籠っている。どうやら心の準備が必要らしい。

『夕方6時からの予定だったのが、お客さんの都合で7時半になっちゃってね。かなり時間がズレこんじゃうと思うんだけど、予定とかもし入れちゃってたら悪いだろ? 大丈夫かと思って一応確認で電話したんだけど』

ああなるほど。準備するほどでもなくて安堵。

契約は完了までだいたいが2時間コース。私の仕事はお茶出しとかコピーとかの雑用ではあるけど、お客さんを見送るまで最後まで付き合わないといけない。7時半始まりなら帰りは10時過ぎだ。それを羽鳥さんが気を利かせて、早めに報告してくれたんだろう。

7人いる営業さんの中で彼が一番常識的で良識的だ。私は「大丈夫です」と軽く返事をした。

「特に予定も入れてないですし。遅くなっても近いですから気にしないでください」

『そう言ってもらえると助かる。終わったら飯おごるよ』

「いいですよそんなの。羽鳥さんこそ奥様がご飯作って待ってるんでしょうから、早く帰ってあげてください」

卒が無さそうな社交辞令を笑って受け流す。

『あぁ、まあ。でも大丈夫だから。軽くでも食って帰った方が吉井さんも楽だろ?』

 それはそうだけど。

『じゃあそういう訳で明日よろしく。お疲れさま』

羽鳥さんは爽やかに言って通話は切れた。
   
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