その唇を食べさせて
その唇を食べさせて
「迎えにきたよ」

コートを着込みバッグを提げ、今まさに帰らんとする私の前に、甘いマスクの彼が立ち塞がった。

背後で部署の女性社員がざわつき始める。当たり前だ。こんな一部署に、わざわざCEOが足を運んだのだから。

「……こっちにきて!」

女性社員たちの視線から逃げるようにして、私はオフィスの脇にある誰もいない倉庫へと彼を引っ張っていった。


「困ります! あんなところで――」

「どうして? もうすぐ俺たちは結婚するのに?」

「それは……」

婚約。確かに私たちは将来を誓い合った仲だ。

けれど、日が経つにつれ、冷静になり、次第にこの現実を受け止められなくなっていった。

「私と結婚なんて、しない方がいいに決まってます」

彼は、世界を股にかける大企業の跡取り息子。一庶民の私とは、身分も、価値観も、なにもかもが違い過ぎる。


「君じゃなきゃダメだって言ったはずだけど。俺の言葉、信じてくれてない?」

プロポーズと同時にくれた、彼の愛の言葉の数々。

――偶然目が合って、恋に落ちた。優しくて、温かい笑顔の君と、ずっと一緒にいたい――

私の好きなところを、ひとつひとつ並べてくれた。


「……嬉しかったです。あんなこと言われたの、初めてだったから」

「だったら、本当の気持ちを聞かせて」

私の頬にそっと触れながら、逃れようのない真っ直ぐな眼差しを向けてくる。

――もしもこのバレンタインという日が、私のような臆病者を愛と向き合わせるために用意してくれた日であるのなら。

私も一度だけ、勇気を持って本当の言葉を紡ぎたい――


「笑わないで、聞いてくれますか?」

私はおずおずと、バッグの中から丁寧に包装された小箱を取り出した。

渡せない、渡せるわけがない。そう思いながらも、作らずにいられなかったチョコレート。


「……あなたが好きになってくれるずっと前から、好きでした」

偶然目が合っただなんて嘘。
私はあなたのことを、ずっと見つめ続けてた。

震えた手で差し出したチョコレートを、彼は受けとり、クスリと笑う。


「君はまるでチョコレートみたいだ。甘くて、かわいらしくて、食べてしまいたくなる」


そう囁いた彼は、うつむく私の顔をそっと指で押し上げた。

そして、その言葉通り。
私の唇を愛おしみながら、ゆっくりと味わうようにかみついた――。


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