私の愛しいポリアンナ
海岸線が見えてきた。
秋は外の景色に意識を向ける。
キラキラと海面に反射する光が眩しい。
「そろそろ着くぞ」
そう後ろに声をかける。
バックミラー越しに後部座席を見る。
みのりは窓の外ではなくうなだれた男の様子を見ている。
男は疲れ切ったように動かなかった。車の振動に合わせて揺れるだけ。
ゆっくりとカーブを曲がり、駐車場に車を入れる。
正午過ぎの暖かな日差し。海は穏やかだった。
秋が車から出ると同時に、みのりも男の手を引き車から出てきた。
髪が乱れ、うろんな瞳。
その瞳が、海を捉える。波間の反射する光が眩しいのか、目を細めた。
男を外に出すだけ出して、みのりは先に行ってしまう。
秋もその後ろ姿を追う。
ズリッと引きずるような足音が聞こえてきたので、男も付いてきているのだろう。
彼の歩調に合うように、ゆっくりと足を進めた。
「たまに、」
後ろから、男が震えた声を出した。
「たまに、衝動的に、去勢を考えるんです」
想像したら寒気がした。
したいなら勝手にすれば、とは言えない。自分の一部を失うことが怖い気持ちはよくわかる。
男は勢いで、というよりも、ずっと耐えてきていたものを吐き出すように続けた。
「普通に生まれたかった」
普通の愛情。普通の性欲。普通の生活。
普通って、それはつまり、なんだろう。足を止め、後ろを振り返る。
くたびれた顔の男がにへら、と笑った。
誰かを愛するということは、一般的には美しいこととされているが、この男にとってそれは重罪だ。
死にたくならないのだろうか?
秋はごく自然に、そう疑問に思った。