樛結の実 ー愛も罪も 番外編ー
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一階のリビングの明かりが、地下にある理麗の部屋の天窓に差し込んでくる。それとサイドテーブルに置いてあるハート型のスタンドライトに淡く桃色に照らされて、部屋は柔らかな光りに包まれていた。
夕食後、理麗はベッドに仰向けに寝転び、暫くは天井を眺めていた。そして勢い良く足を振り上げて起きると、ブックシェルフから星占いの本を持ち出した。
理麗は自分の星座である天秤座のページを開いて、他の星座との相性が書いてある所を見た。
一路は1月生まれだから山羊座だ。天秤座と山羊座の相性は…《✕ …のんびり屋のあなたとは相性がイマイチ》と書かれてある。
理麗は大きく溜息を吐くと、またベッドに寝転がった。
以前からこの本を見ては、一路との相性が気になっていた。これはやはり一路とは、結婚には向かないという事なのだろうか。それで赤い糸がもう一つ現れたというのか。
三日前。理麗の前に突然J168が現れ理麗には運命の赤い糸が二つあると聞かされた。
学校の授業が終わって帰る時だった。何時もの様に校門で友人と別れて、迎えの車に乗ろうとした。その時から少し妙だと感じていた。
✻
木曜日。
門の脇には大きな黒塗りの外国車が停車している。何時もなら理麗の姿を見つけると、そこから迎えに来た泉田が出て来て、理麗が乗るまで後部座席のドアを開けて待っていてくれる。だが今日はそこに泉田はいない。
理麗の父が警備のサービス会社に依頼して、泉田に子供達を学校まで車で送迎してもらっていた。泉田はがっちりとした体型の40代の男性だ。
「?」
理麗は遠巻きにその車を眺めた。黒くて同じ車種、後部座席の窓にはレースのカーテン、ナンバープレートも見慣れた番号だし、確かに泉田の車だ。
理麗は車の前方へ回る。窓にはスモークフィルムが貼ってあり車内がよく見えない。フロントはカーシェイドが広げられている。中の様子が全く判らない。
「??」
お腹でも壊したのだろうか。理麗は不審に思いながらも、後部座席のドアに手を掛けてみた。
カチャッ ーードアが開く。
鍵を掛けずに車を離れるとはなんて不用心なんだろう。それとも理麗が車内で待っていられる様に、わざと鍵を掛けないでいたのだろうか。理麗はそう考えながらも車内へと乗り込んだ。
6歳の妹と4歳の弟の世話に忙しい母親に代わって、父親が世の中は物騒だからと、送り迎えをサービス業者に頼んでいた。小学3年生の妹と理麗は泉田が運転する車で学校に通っていた。
今迄こんな事は無かった。理麗が下校する時間を見計らって、送迎の車が控えていた。それは理麗が小学生へ通う様になってから今迄のこの5年間、ずっと変わらぬ日常の一部となっていた。
学校のお手洗いでも借りているのだろうか。それともどこか別の……
理麗がレースのカーテンを捲って外を覗いた時だった。車が急発進した。
「!」
考え事に気を取られて前方を全く見ていなかった。運転席には泉田とは違う黒い後ろ姿がある。
「誰…?」
不安が弱々しい声となって理麗の口から洩れる。だが相手は何も答えない。理麗は恐くなってドアに手を掛けたが、ロックをされていてドアは開かなかった。
「誰!」
今度は大声を挙げた。声が震えて裏返る。だがやはり返答は無い。
そうだ! 防犯ブザー!!
理麗は補助鞄に付けていた水色でハート型をした防犯ブザーを掴んだ。
すると、直ぐにそこに大きな手が伸びてきて、理麗の行動を制した。
「話しが出来なくなるから」
そう言って、カラビナを外され、取り上げられてしまう。
理麗の心臓がバクバクと鼓動を速め、手は震えた。
その時、車が右折したと同時に助手席からカクッと後頭部が現れた。
それは泉田だった。今迄、座席の背もたれに隠れていて見えなかったのだ。体は力無く傾いている。
理麗は目を見開く。
まさか……。
「し…死んでるの?」
「気を失ってるだけだ」
ーー静かな若い声。
泉田は学生時代に何度か柔道の大会で優勝した事があると言っていた。だから父は子供達の送り迎えに泉田を雇ったのだと。
もう若くはないが、毎日のジョギングとトレーニングは欠かさない為、中年だが体は引き締まっていた。だから理麗も安心していた。その泉田がこんな事になってしまうなんて。
自分はどうなるのだろう……これは誘拐か、身代金を受け取るまで、自分は何日も家に帰れないのだろうか。受け渡しに失敗したら…殺されてしまうのだろうか。理麗は一気にパニックに陥り涙が溢れ出した。
確かに貴城家はお金に困った事は無い。家はカーテンの専門店を経営している。だからといって大金持ちだと感じた事は無い。実際、貴城家より裕福な家庭は沢山いる事だろう。子供が車で通っているのを見て裕福だと思われたのだろうか。理麗は卑屈に感じていた。
理麗は何度も運転している人物に向かって、一体誰なのか、何故こんな事をするのか、自分はどうなるのかと訊いたが、それに対して答えは返って来なかった。
両親、妹弟など家族の顔が思い浮かんできて、無性に会いたくなる。止めどなく頬を伝う涙を理麗はハンカチで拭う。そのすすり泣く声が車内に響いた。
車内では無言のまま時が過ぎ、軈て車は止まった。
随分と帰り道から逸れたのだろう。正面に見える景色は山と川、遠くに屋根瓦の民家が疎らに見えるという見知らぬ場所だった。
ここで何が起こるのだろう。理麗は生唾を呑み込んだ。
少し間を置いてから運転席にいる人物が振り返った。
「泣くな。危害を加えるつもりは無いから。大事な話しをしに来たんだ」
理麗はその端正な顔立ちに目を止めた。
黒目が大きく目尻の少し上がった猫目。濃く凛々しい眉毛。パサパサとした質の肩まである髪。歳は二十代前半に見える。とても悪人顔とは言えない。
こんな人が誘拐をするのか、とても残念だと理麗は思った。
「貴城理麗だな」
初めて会ったのに相手が自分の名前を知っている。その事を恐いと感じながらも、理麗はコクンと頷いた。
相手は慌てる事無く、理麗が泣き止んで落ち着くのを待ってから話し出した。
「理麗の将来にとって、とても大事な話をしに来たんだ。これから話す事は他言しない様に。私と二人だけの秘密だ。約束できるだろ?」
理麗はまたコクリと頷いた。
「理麗は運命の赤い糸を知ってる?」
「赤い糸って…将来、結ばれる人とつながってる赤い糸のこと?」
鼻をすすりながら、潤んだ大きな瞳で相手の顔を見た。理麗は早速その話に興味をそそられていた。
「そう。知ってるなら話は早い。その赤い糸の事でトラブルが発生したんだ。それで理麗に伝えに来た」
「トラブル? …イチロくんがどうかしたの?」
「イチロ?」
「婚約者のおおさきいちろくんよ。えっと…」
長髪だが化粧をしていない。この人は男性だろうか。そう考え理麗は、
「お兄さん、イチロくんの知り合い?」
と訊いた。
「え? あぁ…えっと…、違う。私はディスポウザーで、そのイチロって婚約者とは関係ない。それに私は男じゃない」
と、その人物は困った様に微笑む。
「あっ、ごめんなさい」
理麗は失礼な事をしたと、口元に手を当てて、それから「お姉さん」と付け足した。
「いや、そうじゃなくってーー…」
と言って、その人物は言葉を呑んだ。11歳の子供を相手に説明した所で理解出来るとは思えない。余計な事は言わないでおこうと、
「J168と呼べばいい」
と言っておいた。
「J168? 変わった名前…。本名? 外国人? そんな名前初めて聞いた」
「呼び名さ」
「へぇー」
J168の顔立ちや話し方に、理麗の恐怖心はもう薄らいでいた。それに赤い糸という気になる言葉を聞いて、理麗の興味はそっちへ向けられていた。
J168は前を向き、バックミラーを理麗に合わせて話し掛ける。
「話を元へ戻そう。その赤い糸に割り込んで来た別の赤い糸が現れた。だから理麗はどちらかの糸を選ばなければならない。私はその答えを訊きに来たという訳だ」
淡々と話をされて、理麗は何を言われているのか、直ぐにはピンとこなかった。理麗は眉を顰めて、鏡の中のJ168の顔に視線を向けた。
「んー…、よく分からないけど…。運命の赤い糸って、将来結婚する人とつながってるんでしょ? それが2つあるの? じゃあ、あたしは2回結婚するの? イチロくんとは離婚するの…?」
「いや、そうじゃなくて…。まいったな」
そう言って、J168はわしわしと髪を撫でた。
「結婚する回数じゃなくて縁の問題さ。未来に微妙なズレが生じてくる。一般的には一つしか赤い糸は存在を許されない。同時に二つは有り得ないんだ。それが稀に起こる。原因は不明だけれど、どこかで何かが歪んでしまったとしか言いようが無い。だからどちらかを選んで、いらない糸を我々が始末する」
「ふーん…」
理解したのかしていないのか、理麗は気の抜けた返事をした。
「よく分かんないけど…、あたしはイチロくんと結婚の約束をしてるんだよ。けど、もう一人結婚相手が現れて、どっちか選べってことでしょ。そのもう一人は誰?」
「それは教えられない。企業秘密だ。それとさっきからイチロだとか名前を出してるけど、赤い糸の相手がその人物とは限らないよ」
「どうして? 婚約者だよ?」
「理麗が結婚するまでどのくらい時間があると思ってんだ? 本当にそいつと結婚するかな」
「しないの?」
「さぁ、どうかな?」
「なにそれ? じゃあ、どうやって選んだらいいの?」
理麗は少し苛立たしく感じ、それが声に表れる。
「理麗が朱と言えば朱を、紫と言えば紫を。君の自由にね」
「え?」
理麗にはさっきからJ168が所々何を言っているのか理解出来ない部分があった。だが、情報無しに二本ある赤い糸のどちらかを選べと言っているのは判った。
もう随分と前から理麗は一路と結婚する事が決まっていた。それを今更無かった事に出来るだろうか。一路が婚約者という事は紛れもない事実。J168はああ言っていたが、赤い糸の一人は一路に間違いないと理麗は信じている。
もう一つの糸ーー。やはり祖父や両親の知人なのだろうか。それとも理麗が今迄に出会って来た中にいるのか。
そもそも結婚相手を決めるというこんな大事な事を、家族に相談無く自分一人で勝手に決めてしまっていいのだろうか。
「理麗?」
名前を呼ばれて理麗はJ168の顔を見た。不安や疑問、言葉にならない想いが湧き起こる。やっぱり腑に落ちない。
「あたしが勝手に決めるのは…。ママに話したほうが…」
「理麗。事を大きくしたくないんだ。自分で決めて。簡単だろ。相手は誰だか判らない、条件は同じ。二つに一つ、どちらかを選ぶだけさ」
J168は渋い顔で理麗を見た。この事を他言させないように厳しい視線を送る。
「あたしが一人で選ぶ?」
「そう」
「そしたらJ168が…、長くて言いづらいね。J って呼んでいい?」
「…ご自由に」
「じゃあ、J。えっと…なんだっけ…?」
「どっちか選ぶって話」
「あっ、そうだ」
理麗は舌をペロッと出した。
「じゃあ、ママやイチロくんにはJが説明してくれるの?」
「………」
J168は何かを考えているよう。視点が宙でその考えを追っている。
「J?」
理麗が声を掛けると、J168は、
「そこは心配しなくていい」
とだけ言った。