そして僕はまた独りになる
第5話 隠し事
気が付いた時には発表が全て終わり審査員の選考時間となっていた。時計の針は午後4時を指し、予定通りにコンクールが終わったことを伝えていた。やっぱり時とはおかしなものだと思う。先のことを考えるととても長いのに、経ってみるととても短い。
今僕の隣には発表を終え、元の私服姿に戻った彼女がいる。こっちに戻った時には演奏中の彼女の涙は乾いていて、いつもと変わらずに
「どうだった?私の発表」
と聞いてきたぐらいだ。本当はとても良かったのに、それを伝えることが出来ずに「まあ、良かったよ」
と、素直じゃない返事をする。すると彼女は
「そう」
と、そっけない返事をしたきり黙ってしまった。それは無理もない。彼女は僕の為に本気で努力してきたのに、その見返りが虚しい返事一つなのだから。僕はこんな返事をしてしまったことをとても後悔している。
ただ彼女の演奏で一つだけ分かったことがある。それは僕が彼女に憧れのような感情を抱いた、ということだ。僕は彼女のように、美しく、感情の伝わるようなことがしたいと、心から思った。
そしてこのことは彼女本人に伝えなくてはならないと思っている。彼女の努力に対する見返りとして、僕をここに呼んで演奏を聞かせてくれたお礼として、僕を変えてくれたお礼として。だから僕は言葉にする。彼女に向けて。
「美原さん。ありがとう。僕をこの会場に呼んでくれて。僕に君の演奏を聴かせてくれて。僕を変えてくれて」
これだけの短い言葉でも構わない。大切なことは長さじゃないから。
彼女は明るく微笑み
「言ったでしょ?私は演奏で君を変えるって。私は人の心を動かすピアニストだって」
そう。彼女は人の心を動かすピアニスト。一人の演奏家なのだ。
その後、僕達はホールを出て建物の入り口の近くにある椅子で休んだ。
「結果出てくるのまだかな~」
彼女は結果が出るのを心待ちにしているようだ。
「もう少しなんじゃない?」
僕は勘に任せて適当なことを言った。
「そうだね。良い結果だといいな」
そう言って彼女は僕の飲みかけのペットボトルのお茶に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待って!」
彼女は僕の言葉を聞かずに飲み続ける。
「何?」
彼女は何も気づいてないような表情を見せる。天然かよ。可愛い過ぎるだろ、と思った。
「いや、それ僕の飲みかけなんだけど…」
彼女はペットボトルのラベルを見て驚いたような表情を見せた。
「あ、本当だ。ごめんね。気づかなくて」
彼女は僕が気にしているところには触れずに飲んでしまったことを気にしていた。
「僕の飲みかけでも気にしないの?」
僕は単刀直入に尋ねた。
「別に気にしないよ。だって栗原君だし」
まさか彼女僕のことが好きなのか。いや、そんなはずはない。なぜ僕は過剰に反応してしまうのだろう。考えるまでもない。僕は彼女が好きだから。彼女に僕のことを好きであってほしいと願ってしまうから。
「異性との間接キスって緊張したりしない?」
「別に栗原君だからいいの」
「それってつまり僕のことが好きってこと?」
「・・・」
彼女は答えずに下を向いてしまった。彼女が顔を上げた時、周りが一点に向かって歩き出した。
「全日本学生ピアノコンクールの審査結果を発表しました」
彼女はゆっくりと立ち上がり、足早に歩き出す。まるで質問から逃げるように。
僕は正直、質問の答えを聞きたかった。どちらの答えが返ってきたとしても。
僕は彼女の後をついていく。結果を待ちどおしく思っていた彼女の、不安と、自信に満ち溢れた背中を見ながら。
結果の張り紙に近づくと、喜びの声と悲しみや悔しさの声が入り混じって聞こえてくる。彼女はどっちだろうか、と僕も少し不安になる。彼女はそんな僕をよそに、ゆっくりと近づいていく。
彼女は結果を見てから動かなかった。悪かったのだろうか、と近づいて確認してみると、そうではなかった。彼女の名前は一番上に、最優秀と書かれた文字の横に書いてあった。そう。つまり彼女は最優秀を、コンクールで一番の成績を取ったのだ。
「最優秀…?」
彼女は驚いたような声でつぶやいた。
「そうだよ。君は最優秀だ」
「・・・」
彼女は立ちすくしたまま動かなかった。彼女は震えながら
「私最優秀を取れたの?」
と聞いてきた。僕は
「そうだよ」
と優しく、水を布に染み込ませるように彼女にささやく。
「私なんかが最優秀を取ったの?」
「私なんか、じゃないよ」
「そうだね。君に僕なんかって言わせないくせに私が私なんかって言っちゃだめだよね…」
彼女の声はとても震えていて、今にでも消えそうだった。
「ああ、最後に最優秀を取れて良かった」
「最後に?」
「いいや、何でもないよ」
何故か僕の心にはさっきの言葉に気がかかり、雲がずっと晴れなかった。
気が付けば、彼女の頬にはまたも涙が流れていた。その彼女の涙は演奏中に流していた涙とは全くの別物だった。喜びに満ち溢れている。しかし、陰で悲しさも兼ね備えている。その涙は、沈みかけの夕日に照らされて、喜びと悲しみに満ちた光を反射させていた。
今僕の隣には発表を終え、元の私服姿に戻った彼女がいる。こっちに戻った時には演奏中の彼女の涙は乾いていて、いつもと変わらずに
「どうだった?私の発表」
と聞いてきたぐらいだ。本当はとても良かったのに、それを伝えることが出来ずに「まあ、良かったよ」
と、素直じゃない返事をする。すると彼女は
「そう」
と、そっけない返事をしたきり黙ってしまった。それは無理もない。彼女は僕の為に本気で努力してきたのに、その見返りが虚しい返事一つなのだから。僕はこんな返事をしてしまったことをとても後悔している。
ただ彼女の演奏で一つだけ分かったことがある。それは僕が彼女に憧れのような感情を抱いた、ということだ。僕は彼女のように、美しく、感情の伝わるようなことがしたいと、心から思った。
そしてこのことは彼女本人に伝えなくてはならないと思っている。彼女の努力に対する見返りとして、僕をここに呼んで演奏を聞かせてくれたお礼として、僕を変えてくれたお礼として。だから僕は言葉にする。彼女に向けて。
「美原さん。ありがとう。僕をこの会場に呼んでくれて。僕に君の演奏を聴かせてくれて。僕を変えてくれて」
これだけの短い言葉でも構わない。大切なことは長さじゃないから。
彼女は明るく微笑み
「言ったでしょ?私は演奏で君を変えるって。私は人の心を動かすピアニストだって」
そう。彼女は人の心を動かすピアニスト。一人の演奏家なのだ。
その後、僕達はホールを出て建物の入り口の近くにある椅子で休んだ。
「結果出てくるのまだかな~」
彼女は結果が出るのを心待ちにしているようだ。
「もう少しなんじゃない?」
僕は勘に任せて適当なことを言った。
「そうだね。良い結果だといいな」
そう言って彼女は僕の飲みかけのペットボトルのお茶に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待って!」
彼女は僕の言葉を聞かずに飲み続ける。
「何?」
彼女は何も気づいてないような表情を見せる。天然かよ。可愛い過ぎるだろ、と思った。
「いや、それ僕の飲みかけなんだけど…」
彼女はペットボトルのラベルを見て驚いたような表情を見せた。
「あ、本当だ。ごめんね。気づかなくて」
彼女は僕が気にしているところには触れずに飲んでしまったことを気にしていた。
「僕の飲みかけでも気にしないの?」
僕は単刀直入に尋ねた。
「別に気にしないよ。だって栗原君だし」
まさか彼女僕のことが好きなのか。いや、そんなはずはない。なぜ僕は過剰に反応してしまうのだろう。考えるまでもない。僕は彼女が好きだから。彼女に僕のことを好きであってほしいと願ってしまうから。
「異性との間接キスって緊張したりしない?」
「別に栗原君だからいいの」
「それってつまり僕のことが好きってこと?」
「・・・」
彼女は答えずに下を向いてしまった。彼女が顔を上げた時、周りが一点に向かって歩き出した。
「全日本学生ピアノコンクールの審査結果を発表しました」
彼女はゆっくりと立ち上がり、足早に歩き出す。まるで質問から逃げるように。
僕は正直、質問の答えを聞きたかった。どちらの答えが返ってきたとしても。
僕は彼女の後をついていく。結果を待ちどおしく思っていた彼女の、不安と、自信に満ち溢れた背中を見ながら。
結果の張り紙に近づくと、喜びの声と悲しみや悔しさの声が入り混じって聞こえてくる。彼女はどっちだろうか、と僕も少し不安になる。彼女はそんな僕をよそに、ゆっくりと近づいていく。
彼女は結果を見てから動かなかった。悪かったのだろうか、と近づいて確認してみると、そうではなかった。彼女の名前は一番上に、最優秀と書かれた文字の横に書いてあった。そう。つまり彼女は最優秀を、コンクールで一番の成績を取ったのだ。
「最優秀…?」
彼女は驚いたような声でつぶやいた。
「そうだよ。君は最優秀だ」
「・・・」
彼女は立ちすくしたまま動かなかった。彼女は震えながら
「私最優秀を取れたの?」
と聞いてきた。僕は
「そうだよ」
と優しく、水を布に染み込ませるように彼女にささやく。
「私なんかが最優秀を取ったの?」
「私なんか、じゃないよ」
「そうだね。君に僕なんかって言わせないくせに私が私なんかって言っちゃだめだよね…」
彼女の声はとても震えていて、今にでも消えそうだった。
「ああ、最後に最優秀を取れて良かった」
「最後に?」
「いいや、何でもないよ」
何故か僕の心にはさっきの言葉に気がかかり、雲がずっと晴れなかった。
気が付けば、彼女の頬にはまたも涙が流れていた。その彼女の涙は演奏中に流していた涙とは全くの別物だった。喜びに満ち溢れている。しかし、陰で悲しさも兼ね備えている。その涙は、沈みかけの夕日に照らされて、喜びと悲しみに満ちた光を反射させていた。