淡雪
 少し黒坂は驚いた。
 そんな乱暴なことをするようには見えない。
 普通の状態であれば、だが。

「畜生の分際で邪魔しやがって、とか呟いて。私、びっくりして奈緒様を見ましたら、もう……お顔がおかしいんです。般若のようになってて。でも一瞬でした。すぐにいつもの奈緒様の笑みに戻ったんですけど、何だかその笑みも、どこか空恐ろしくて。そんな方じゃなかったのに、自分の邪魔を少しでもされるのが我慢ならないっていう雰囲気でした」

 ぞく、と黒坂の背筋を悪寒が走った。
 この感じ、花街で感じた。
 邪魔者はどんな手を使っても排除するという考えが行き過ぎた結果があの奈緒か。

 気付けば二人は稲荷神社に来ていた。
 何となく歩きながら話していたから、自然と足がそちらに向いたのだろう。

「私、実はここで奈緒様を見たんです」

 静が、恐ろしそうに片手で顔を覆いながら、本殿のほうを指差した。

「その、奈緒様の恐ろしいお顔を見てから何となく怖くて、会うこともなかったんですけど、少し前に本殿の奥の、林の中から出てらして。やけに周りを気にするものですから、思わず隠れてしまったんです。見つかったら、何か恐ろしいことをされる、と本能的に思ってしまって」

「どうだろうな……。そんなに明らかなほど、様子がおかしかったのか?」

 揚羽は髪こそ切られていたが、外傷はなかった。
 血塗れの懐剣を持っていたとかなら恐ろしかろうが、そういったものはなかったはずだ。

「いえ、でもいかにも人に見られたくない、という感じでしたので、もし見つかって、奈緒様のお顔があの猫のときのように豹変していたら、と思うと怖くて」

 静がそう言ったとき、再び黒坂の背が粟立った。
 音羽が襲われる前に感じた空気。

 振り向くと、鳥居の下に一つの影がある。
 いつの間にか夕日は落ちて、薄闇の中に浮かび上がったのは奈緒だ。

「ひっ……」

 静の喉が鳴った。
 髷は崩れ、乱れた髪が風に揺れている。

 花街で暴れてから一日しか経っていないのに、頬はこけ、目だけがぎょろぎょろと光っている。
 あるいはそう見えているだけかもしれないが。
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